15 清涼なる声
そこから先は、地獄のようだった。
何度も血の海に出くわし、子供達に引きずりこまれた。それだけじゃない。曽根崎は、ループの終わりが来るたびに幾度となく景清を手にかけたのである。
「……ッ!」
あらゆる可能性を考慮された上での、やむなき処置だった。さりとて上手くいく時ばかりではない。手元が狂った時などは最悪で、もがく景清を押さえつけて「次は上手く殺すから」「すぐに自分も行くから」と何度もナイフを突き刺した。
一向に慣れるものではなかった。肉を抉る感触も、悲鳴も、全てを忘れて何事も無かったかのように事務所で自分を見上げる目も。数を重ねるうちに、曽根崎の精神は極限まで消耗されていった。
しかし、ループの中で分かったこともある。集落への到着直前で聞こえる男の笑い声――実は一度だけ、曽根崎は男の後ろ姿を見た。男は荒れ果てた集落の中、ぼうと立っていた。それから突如けたたましい笑い声を上げたかと思ったら、あの“天使”が現れたのである。天使が何をしたかは分からない。だが金色の光が満ち、曽根崎が思わず目をつぶった間にふつと男の姿は消えていた。
“天使に見つかった者は、消される”。経験に裏打ちされた直感により常に天使を警戒していた曽根崎だったが、この出来事で疑惑は確信に変わった。決して近づいてはならない。曽根崎は、殊更注意深く景清を天使から遠ざけるようになった。
だが、今になって思う。果たしてあの記憶は、本当にループ中に起きたことだったのだろうか?
景清の記憶が戻ったことで、世界は変容した。集落は廃れ、謎の老人は執拗に「小箱を開けろ」と景清に迫ってきた。しかしこの荒れた集落こそ、かつて曽根崎が男を見た場所そのものだったのである。
これは、何を意味するか?
――男が消えた記憶は、『ループ一回目の出来事』だったのではないか。“何か”が起こったからこそ消えてしまい、その後は笑い声しか聞こえなくなったのではないかと曽根崎は考えたのだ。
まあ、推測できたからといって悪夢から脱出できるわけではないのだが。むしろ世界は、決定的な悪意をもって曽根崎達に迫ってきていた。
崇高な恐怖、おぞましき神聖、絶対なる隔絶。集落で天使に近づかれた景清は、突然目からおびただしい量の血をあふれさせ始めた。たちまち辺りを血の海に変えてしまった彼は、おもむろに立ち上がるとフラフラ歩き始める。周りでは、子供達が六本の脚を地面に打ちつけて歌っていた。
「ワラエ、ワラエ、ワラエ、ワラエ」
「オイデ、オイデ、オイデ、オイデ」
「アーーー! アーーーーー!!」
「ダメだ、行くな景清君!」
叫んだが、振り返った景清に全身が凍りついた。血を流し切った彼の目に浮かんでいたのは、恐怖、怯え、困惑――深い絶望。景清を殺すたびに見たあの目が、曽根崎を捉えていた。
「……!」
耳鳴りがする。自分でも理解できないショックに、息すらまともにできなくなっていた。――正気と名付けられた曽根崎の最後の糸が、たった一つの動揺の為にちぎれかけていたのである。勝手に顔の筋肉が引き攣り、笑顔に似た形を作っていく。衝動的な咆哮が喉奥から突き上がり、ナイフを引っ掴んだ手は今にも己の頭蓋骨の隙間に差し込み致命的なダメージを与えようとして――
「――ッ!」
それでも、なんとか瀬戸際で思いとどまった。『景清を、一人にしてはならない』。この期に及んで曽根崎は、闇の中に景清の後ろ姿が見える限り何もしないではいられなかったのである。
麻痺しかけた脳から指令を送り、ぎこちなく手足を動かす。顔を上げた黒と赤の世界の先では、景清がどこからともなく現れたドアの取っ手に手を伸ばしていた。
「景清君!」
血飛沫を上げて飛び込む。景清の体が奈落へ投げ出される直前、曽根崎の手は彼の腕を捕まえていた。闇の底に見えるは、びっしりとひしめく無数の昆虫。それらはまもなく与えられるだろう糧に、キィキィと歓喜の声を上げていた。
「待ってろ! 今、引き上げる!」
対する景清は、疲れ切った顔で曽根崎の背後に視線をずらしている。――こんな状況で、一体何を見てるんだ。曽根崎は、ギリと歯軋りをした。
それでも自分は、また彼を殺さなければならないのである。このままではどちらも落下し、下で待つ虫に体を食いちぎられて死んでしまうだろう。そうなれば景清はどうなる? 耳や鼻、口から入ってきた虫に全身を食い破られるショックが次回のループにも残ったら?
――また、自分との記憶を無かったことにしたら?
殺してやる以外、選択の余地は無いと判断する。かといってこの体勢からどう行動するのが適切か、曽根崎は決めかねていた。
いっそ自分も落ち、彼が虫にたかられる前にトドメを刺してやるか? ……ダメだ。虫に邪魔をされたら、彼の目に自分が殺されるサマを見せることになる。一か八かナイフで頸動脈を狙うべきか? 落下までに失血死できる保証は無い。ならば絞殺? ネクタイを外して首にかければ……いや、万が一反動に耐えられず共に落ちたら? ……ダメだ、ダメだ。殺せない。こうなっては……上手く……。
「……曽根崎さん」
景清の声がする。遠くから聞こえてくるかのようなか細い声の主は、しかし見下ろせばすぐに見つけることができた。
いつのまにか景清の目は、強い理性をもって曽根崎に向けられていた。
「僕に小箱を渡したおじいさんに、あの集落で言われたことを伝えます。彼は、箱を開けると終わらせることができると言いました。終焉の声が神の名を呼ぶ。非情なるタナトスより解き放たれると」
「……」
「僕にはその意味はよく分かりません。でも、曽根崎さんになら分かるんじゃないかなって。……今も、そのおじいさんは僕らを見てます。曽根崎さんの後ろで、虫みたいになった子供達と一緒に。『大いなる救済に身を投げ出せ』って言いました」
片手が持ち上がる。握られていたのは、老人から貰った小箱。
「僕が、支えています」景清は、しっかりと言い放った。
「もし曽根崎さんがこれを開けると言うなら、手伝います。……大丈夫です。僕を掴んでいる手を、片方離してください」
「だが、それでは君は……」
「はい、“終わり”になるでしょう。ですが……唯一出口が見えているのも、ここなんです」
「……今度は本当に死ぬかもしれない」
「そうかもしれません。でも、これ以上は曽根崎さんが」
その続きは言い淀んだ。一瞬苦しそうな顔をしてうつむいた景清だったが、すぐまた曽根崎を見上げる。
「元の世界に戻りましょう」
曽根崎は、黙って景清の声を聞いていた。声は、こんな場所にあってもなお清涼だった。
「二人で、生きて帰るんです」
正しかった。全ての指針が、彼を中心にしたかのように正しかったのである。
そして彼の言葉が耳に染み込んでいくうち、次第に曽根崎の頭にかかっていた霞は晴れていった。
(……そうか)
笑い声を残して消えた男。集落に落ちていたハンカチ。小箱を開けるように導く老人。ループさせる子供達。自分達に気づかない“天使”。
曽根崎の壊れかけた脳に、いくつものループの記憶が統合されていく。微かな笑みが口元に宿った。
(そうだったのか)
ついに彼は、ある答えに辿り着いたのだ。
「……分かった。小箱を開けるとしよう」
片手を離し、景清の持つ小箱に手をやる。注意深く指を操り、寄せ木細工にも似た小箱の仕掛けを器用に解いていく。
そして、いよいよあとは蓋を外すだけとなった時。
「そら、受け取れ!」
曽根崎は景清の手から小箱を掴み取ると、全ての力をもって背後に投げつけたのである。





