13 うまくころせない
まず感じたのは、猛烈な気色悪さだった。身も蓋も無い言い方をして申し訳ない。でもこれが一番適当だったもんだから。
だって、普段から背後霊ひっ下げてるような顔した曽根崎さんが。まともに出てくる笑みといったら、皮肉めいたやつしか無い曽根崎さんが。
そんな顔、するか!!!!
「……!」
顎を押さえて三歩下がったその人は、マントの老人に戻っていた。さぞかし痛いだろうな。なんせ小箱握って殴ってやったもん。
「景清君!」
で、後ろから本物がやってきた。そこでようやく、僕は集落のど真ん中に立っていると気づいたのである。
「何をしている!? 無茶をするなと言ったろう!」
「曽根崎さん」
「ああ!?」
小箱を持ってないほうの手で、曽根崎さんの頬をぺちぺちと叩く。オッサンは眉も唇も思いきりひん曲げて、「は?」という顔をした。
うん、これは本物だろう。僕はこっそり安堵した。
「なんの儀式だよ。叱られてるってのにニヤニヤして」
「ええと、実はさっきこのおじいさんが曽根崎さんの姿になっててですね。こっちは本物かなと思い」
「……君、殴ってたよな?」
「ふざけた顔してふざけた事を抜かしてたので、つい」
「本物だったらどうすんだよ」
「それはそれで」
「いいわけないだろ」
呆れる曽根崎さんを尻目に、老人に視線をやる。彼の隣には灰色のハンカチが落ちており、つられて同じ場所を見た曽根崎さんが首を傾げた。
「それはハンカチか? 君が落としたにしては高価そうだが……いや」
顎に手をやった曽根崎さんの目が、鋭くなる。
「……思い出した。そういえば、いたな。我々の他に、もう一人」
「はい、滝の所で会った男の人です。確かに集落で笑い声がしたはずなのに、姿はありませんでした。このハンカチも前のループで見つけていたのですが、曽根崎さんに見せようとしたら消えてしまって」
「加えて、男の姿自体もループから無くなっていたと。……なるほど、是非とも詳しい話を聞きたい所だ」
曽根崎さんの体が老人に向く。老人は、最初からそういう石像であったかのようにピクリとも動かない。
「ご老体、あなたは一体何者なのでしょうか? 彼に小箱を渡し、意識を操作し、挙げ句私の幻影すら見せるなど」
「……」
「その動因は、善意によるものか、はたまた悪意によるものか。いずれにせよ、あなたは我らに小箱を開けさせようとしていることには違いない」
老人の顔が上がる。粗末なマントがずれ、落ち窪んだ目が忙しなくまばたきをした。ボコボコに節くれだった指が、震えながら僕らの背後を差す。
突如全身を這うような冷たさが襲った。体の震えが止まらなくなる。崇高な恐怖、おぞましき神聖、絶対なる隔絶――。それが、僕と曽根崎さんに迫っているのがわかった。
“天使”が、背後に来ていた。
「……!」
振り返ることができない。息すら憚られたのだ。……苦しい。怖い。まるで巨大な氷の手が、僕の体を握りつぶしているかのようだ。今すぐでも涙ながらに神に赦しを乞い、救われてしまいたいと考えるのはもはや罪でしかないのだろうか。何故こんな思いまでしてまで僕はまだあちらの世界にしがみついている? 我が身をこの夢に捧げられるならそれだけで疑いようも無き全きの安寧が得られるというのに。
「……絶対に……気づかれるなよ……」
絞り出された声に、ハッと我に返る。死人のような顔色をした曽根崎さんが、こめかみに爪を食い込ませて真っ黒な僕に目を向けていた。
「まだ……気づかれていない。私達は、気づいていない、から、後ろには、何もいない、んだ」
「……どういうことです?」
「何もいない何もいない! そう思い込め!!」
曽根崎さんの指を血が伝う。蛇口を捻ったみたいに、彼の血はドバドバと草だらけの地面を浸していた。
明らかに人の体に収まる量じゃなかった。彼の血は瞬く間に広がり、気づけば僕らは旅館の廊下で見たあの不気味な海に立っていたのである。
「曽根崎さん!」
今や血の海の源となった彼は、僕の声に頭を抱えたまま一切反応しなくなっていた。両肩を掴み、無理矢理顔をこちらに向けさせる。悲鳴を寸手の所で飲み込んだ。曽根崎さんの目は、あの子供たちと同様真っ黒な穴に変わっていた。
「アーーーーー!!!!」
弾かれるようにして逃げ出す。荒れ果てた集落は既に跡形も無く、血みどろの廊下が永遠に続いていた。――いつ、曽根崎さんと子供が入れ替わった? 本物の曽根崎さんは? いや、そもそも僕は本当に曽根崎さんと一緒にこの世界に来ているのか?
ループの中で彼と交わした言葉や光景が、勝手に思い出される。その時僕の胸に去来したのは、絶望でもなく悲嘆でもなく、彼と記憶を共有できていないかもしれないことへの単純な寂しさだった。
滅多にしない舌打ちをする。――やだな。僕も結構楽しんでたんじゃんか。
たった一人で逃げながら、振り返る。追ってきている子供の数は二人。だが前を向けば、さっきまでいなかったはずの二人が迫ってきていた。思わず足を止める。左を見ると、マントの老人が暗闇の中で手招きしていた。
「オイデ」
束の間逡巡したものの、他に手は無いと判断する。僕は老人に背を向け、右のドアの中に飛び込んでいた。
「ッ!?」
なんと、そこにあるはずの床は消えていた。口を開けた底の無い闇から逃れようと、咄嗟に体を捻って手を伸ばす。指がドアの下枠を掠める。ダメだ、落ち――
「景清君!」
パシッと手首を掴まれ、落下が止まった。ぼさぼさの髪をいつも以上に振り乱した曽根崎さんが、両手で僕の左腕を引っ張っていた。
「待ってろ! 今、引き上げる!」
必死の形相で手に力を込める曽根崎さんを、僕はやけに凪いだ感情で見上げていた。目の前にいるこの人が、本物か否か。恐怖と疲労でもう判断がつかなくて、思考が止まってしまっていたのである。
「……」
曽根崎さんと僕を覗き込むみたいに、彼の背後から四人の子供が生えていた。その胴体は人間のものではなく、カマキリやムカデのような形に変わっている。顔の空洞から空気が通り抜ける煩わしい音に、曽根崎さんは気づいていないのだろうか。
――気づけるはず、無かった。とっくにこの人の精神は、限界を迎えていたのである。
青ざめて、歯を食いしばって、僕の腕を握り潰さんばかりに掴んで。なのに視線は一向に僕とぶつかることはなく、何も無いはずの場所を見ている。彼が僕でないものの存在を知覚しているのは、火を見るよりも明白だった。
「ここからだと、殺せない。うまくころせない」
ブツブツと呟く声が聞こえる。
「一か八か頸動脈を狙うべきか? しかし落下までに失血死できる保証は無い。ならば絞殺? ネクタイを外して首にかければ……いや、万が一反動に耐えられず共に落ちたら? ……ダメだ、ダメだ。殺せない。こうなっては……上手く……」
「小箱を開けなさい」
絶望に沈む曽根崎さんに、嗄れた声が被さった。
「大いなる救済に、身を投げ出すのです」
子供達の間から、慈悲深い目の老人がこちらを見下ろしていた。





