12 慈母の如き微笑
傾斜の急な坂に、息が上がっていく。前回もそうだったっけか。それとも、今回僕が意識しているから?
「……くれぐれも忘れるなよ」
曽根崎さんが、僕の後ろから言葉を投げる。
「この先で待つのは、君の持つ小箱の意味を知る者だ」
まるで、他の者に聞かせまいとするような小声だった。だから僕も、伝わるかどうかの頷きで返そうとしたのである。
「――」
しかし突然聞こえてきた、陽気な男性の笑い声に気を取られてしまった。覚えている。前回の僕は、この笑い声の主を探して道を教えてもらおうとしたのだ。
でも、男の人はいなかった。代わりに見つけたのは……。
「……!」
景色が開ける。僕の心臓が、ドクンと大きく鼓動した。
霞がかったその場所に、集落は無かった。いや、厳密に言えば集落の痕跡はあったのだ。ただ家屋は風雨のために屋根が落ち、破れた窓ガラスはくすんで汚れていた。隙間からは埃と砂の積もった床が覗いており、所々草や木が突き破っている。おばあさんが耕していたはずの畑も、他の地面と違いが分からないほど荒れ果てていた。最後に誰か住んでいた時から長い時間が経っていたのは、明白だった。
「これは……なんだ? 初めて見る、景色だ」
隣に立った曽根崎さんが、ぐらりとよろめく。慌てて腕を支えて、彼の体温の冷たさに驚いた。
「君が記憶を取り戻したせいで、パターンが変わったのか? だが、ここまで変わったとなれば……」
曽根崎さんの手がポケットに突っ込まれる。きっとそこにはナイフが入っていて、今彼の脳内には最後の手段が渦巻いているのだろう。
「大丈夫です。僕、行ってきますよ」
僕は、あえて何も知らないふりをした。
「あのおじいさんを探してきます。曽根崎さんはここにいてください」
「しかし」
「酷い顔色です。僕は一人で大丈夫ですから」
集落に目をやる。前のループでは子供に囲まれていたけど、今回は違うようだ。だったら、おじいさんに会える可能性は高いかもしれない。
それに、他にも気になっていることがあったのだ。ぼんやりとした景色の中に、ぽつんと灰色の欠片が落ちているのを見つけた。
ハンカチである。
「!」
その刹那、僕の脳裏を知らない男の人の顔がよぎった。……知らない? 違う。僕は、彼を見たことがある。
「へぇー、男二人で旅行? それって――」
記憶の映像の中で、彼は滝の近くに立っていた。下卑た笑みを浮かべながら不愉快な発言を続けるその人に、僕は怒るべきか判断しかねて戸惑っていたのである。すると曽根崎さんが前に出て、男の発言より五倍ほど失礼な言葉を投げて返した。当然立腹する男だったが、親指を下に向け淡々と暴言を吐き続ける曽根崎さんにとうとう白旗を上げた。捨て台詞を残し、僕らより先に滝を後にしたのである。
――そうだ、その後だ。帰る途中で、男の笑い声を耳にしたのは。僕らは不審に思ってそちらに向かい、集落に出くわした。
でもそれだとおかしい。僕と曽根崎さんは、森で迷子になったからこそ集落に行ったんじゃなかったのか? これはループ中に組み込まれ、確定されたルートのはずだ。何故男の存在が消されているのだろう。
とにかく、早く情報を共有しなければ。僕は、曽根崎さんがいるはずの背後を返り見た。
「――!」
だが、彼はいなかった。代わりにいたのは、すっぽりとマントをかぶった小柄な老人。シワシワな口は大きく開けられ、まばらに生えた黄ばんだ歯が露わになっている。
老人は、木箱を持っていた。僕は両手を揃えて差し出し、それを受け取ろうとしている。次にこの人は、「おぬしは、忘れるのだろうな」と言うはずで――。
「オイデ」
老人の口から出てきたのは、全く違う言葉だった。
「オイデ」
――だからこそ、この小箱に意味がある。
差し出した両手の上に、一つの小さな小箱を乗せられる。まるで寄せ木細工のように入り組んだそれは、何故か全く重みを感じなかった。
「オイデ。オイデオイデ。オイデオイデ……」
開けるが良い。開けるが良い。
終わらせたければ、卑き小箱を開けるが良い。
終焉の声が神の名を呼ぶだろう。
いよいよ非情なるタナトスより解き放たれる。
慈悲の光が、脳天に降り注ぐであろう。
「オイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデ……」
僕は何度も頷き、老人の声に聞き入っていた。恍惚とした感情が胸の内から満ちていく。驚くべきことに、僕はこの不気味な老人に奇妙な懐かしささえ感じていたのである。
「なあ、現実の世界は怖いことばかりだろう?」
いつのまにか目の前の老人は消え、曽根崎さんが立っていた。彼の冷たい手が、小箱を持つ僕の両手を掬い上げる。
「人も、人ならざるモノも、全てが平等に君を脅かす。恐ろしい話だ。君は君をすり減らしながら、今日も今日とてバケモノらに囲まれて生きている」
手の甲を撫でられ、そのまま小箱へと導かれる。木片の一つがずらされ、カチッと小さな音を立てた。
「それが、どうだ? この場所なら、君の望む世界だけが繰り返されるだろう。無論今でこそ恐ろしいものに映るかもしれない。しかしそれもじきに慣れようというもの。何故なら彼らには、人の認知を基準とした悪意は存在しないのだから」
曽根崎さんの顔を見上げる。彼は、まるで幼子を見つめる慈母の如く微笑んでいた。温かく、優しく、包み込むような……。
だがそれを見た瞬間、僕の全身から信じられないぐらいの激情が噴き上がったのである。
「終わらせたいと思えば、開けると良い」
曽根崎さんが背負うのは、ゾッとするほど神々しい青の光。数秒前の僕であれば、すぐにでも傅き、祈りを捧げて救いを求めたのだろうか。
――小箱を握りしめる。一旦腕を引く。そして僕より背の高いもじゃもじゃ頭を見据え、すうと息を吸って。
僕は奴の顎めがけ、渾身のアッパーカットを叩き込んだ。





