9 紐づいた記憶
――その時の曽根崎さんの口調と一人称に、僕はある男のことを思い出していた。かつて、曽根崎さんを助けるために時間の面と面を移動した時に出会ったアイツのことを。
“慎司”とそう呼んだ、同い年とは思えないぐらい偉そうな奴だった。そりゃあ二十一歳の時の曽根崎さんなんだから、傲慢不遜なのもむべなるかなと思ったりはするのだけど。とにかくそいつは頭も良く頼りになるヤツで、当時一人ぼっちだった僕は大いに助けられたのである。
けれど彼はもう、僕の記憶の中にしかいない。所詮、一瞬の奇跡の中ですれ違った存在に過ぎないのだ。だからこそ僕は絶対に忘れたくないと思ったし、記憶というものへの捉え方も変わった。アイツのことだけじゃない、曽根崎さんが消そうとする恐ろしい記憶さえ失いたくないと思うようになったのである。
なのにその曽根崎さんから、「忘れるな」と言われるとは情けなさ過ぎる。ついでにちょっと恥ずかしくて、僕は意識の中で頭を抱えていた。
(……いや、凹んでる暇は無い)
自分を叱咤し、失った記憶を掘り起こそうとする。――そうだ、記憶は点じゃない。一つの事象を思い出せば、きっと新しい記憶に紐づけられるはずだ。
集中しろ……! 曽根崎さんとの旅行を、最初から辿っていけば……!
――
僕は、事務所で荷物の最終確認をしていた。後ろから覗き込んできた曽根崎さんが、僕の手にしたものを見て不思議そうに首を傾げる。
「君、案外奇抜な柄のパンツ履くんだな。最近そういうのが流行ってるのか?」
「あ、いえ。三枚セットで二百円だったんで、つい買っちゃったんです」
「つまり二百円で悪魔に魂を売ったと……!?」
「なんだその表現! デザイナーさんに謝れ!」
――
……。
思い出した……。思い出したけど、これどう考えてもいらねぇ記憶だな……。一体どのループでの会話だろう。
だけどこれでハッキリした。今回の旅行でこの会話をした覚えが無い以上、やはり僕にも別のループの記憶があるのだ。よし、この調子でどんどん思い出そう!
――
僕らは、新幹線に乗っていた。
「フグ刺しの駅弁って無いんですかね」
「どうだろうな。詳しいわけじゃないが、駅弁は常温で売られることが多いから、ナマモノは好ましくないんじゃないか?」
「あー……毒が復活するかもしれないってことですね?」
「待て、まさかテトロドトキシンの話をしてないよな? あれはちゃんと毒抜きしていれば、別に復活はしないぞ。してたまるか」
「……」
「……」
「……も、もちろん、細菌がいっぱい増えたりして起こる食中毒の話をしてましたけど……?」
「嘘つけ。目が泳いでるぞ」
――
…………。
思い出したくない会話だった。曽根崎さん、このループだけは記憶飛ばしててくれないかな。無理かな。
いやいや、もっと特徴的なことを思い出そう。じゃないとループの始点に戻った時に、曽根崎さんに胸を張って「覚えてますよ」とは言えない。
えーと、新幹線を降りてからは……。
――
僕らは、駅の前に立っていた。
「なあ。あのゆるキャラ、藤田君に似てないか?」
「え、どれですどれです? あの青色のウサギみたいなやつですか?」
「うん」
「似てる要素あるかなぁ。優しい感じの目?」
「下半身丸出しな所」
「流石にあの人も普段からその形態じゃ無いですよ!!」
――
またしてもいらねぇ記憶だったわ。そんで僕もまあまあ失礼なこと言ってんな。
いいや、これは忘れたままにしとこう。次行こう、次。
――
僕らは、旅館を訪れていた。
「あれ、またアヒルちゃん持ってきたんです?」
「いいだろ。一匹貸してやるよ」
「まだ他にもいるんですか」
「確かコイツがフォアグラ、コイツがピータン、コイツがロースト」
「三匹も出てきた……。っていうか、どれもすごい名前ですね」
「私がつけたんじゃないがな」
「誰がつけたんです?」
「……」
「なんですか、人の顔ジロジロ見て」
「……まあ、腹が減ってたんだと思うよ」
「はあ」
――
「あれ、またアヒルちゃん持ってきたんです?」
「まあな。風呂に連れてったら、君のテンションが明らかに上がるから」
「人を子供扱いしないでください! ……でも、よく見たらこの子たち、ちょっとずつ顔が違うんですね」
「そうか?」
「せっかくだから名前つけてあげましょう。垂れ目がちのこの子はフォアグラ、口元にホクロがあるこの子はピータン、印刷ズレてるのがロースト」
「腹減ってんのか?」
「早く夕食になりませんかね」
「心なしかアヒルどもの顔が怯えてるように見えてきたな……」
――
……それぞれ、違うループの記憶だろうな。で、前者の記憶が後のほうのループだ。覚えてないけど、僕はいつのまにか曽根崎さんとこのアヒルちゃんの名付け親になっていたらしい。
何はともあれ、複数のループのことも思い出してきた。もっと印象的な記憶は無いだろうか……。
――
僕らは、滝の近くに来ていた。
「曽根崎さん、水すごく綺麗ですよ。うわー、底が透けて見える……」
「ああ、まるで君の心のようだ」
「曽根崎さん……」
「無理に嘘ついてる時の君の心」
「悪かったですね、スケスケのバレバレで」
「最近は晴れ続きだったんだろうな。雨が降れば川は濁るもんだから」
「運が良かったってことですね。魚とか見えないかなぁ」
「おい、あんまり近づき過ぎるなよ。苔も生えているから滑りやっ」
「曽根崎さーーーん! いやその流れでアンタがこけるんですか!?」
「どうしよう。今濡れてない部分を探すほうが難しい」
「予備の着替えあります? 下着だったら、新品の持ってきてるんで一枚ぐらい貸せますけど」
「いや、最悪の事態は避けたい」
「人のパンツ捕まえて最悪の事態って言うのやめてくれません?」
「確か旅館近くにコンビニがあったはずだ。早く帰ろう」
「うげぇ……僕今から、こんなびしょ濡れのオッサンに同行しなきゃならないのか……」
「事情を聞かれた時のフォローは頼む」
「それぐらい自分で説明してくださいよ……」
――
もしかして、曽根崎さんが言ってたアクシデントってこれか? そんでもって、僕らはこのまま迷子になったんだろうか。集落の人も、濡れた大型犬みたいな人が来てすごくびっくりしただろうな……。
集落。そういえば、曽根崎さんの様子がおかしくなった最初の場所だ。今回のループではハンカチが消えたぐらいだったけど、他で何か変わったことは起きていなかっただろうか。
――
「――おぬしは、忘れるのだろうな」
集落に来ていた僕は、一人の小柄なおじいさんと話していた。すっぽりとマントを頭からかぶっていて、およそ集落には場違いな服装だった。
「だからこそ、この小箱に意味がある」
促されて揃えて差し出した両手の上に、一つの小さな小箱を乗せられる。まるで寄せ木細工のように入り組んだそれは、何故か全く重みを感じなかった。
「――。――――、――。――」
早送りのようにおじいさんの口元が動く。……説明をしてくれているのだろうけど、何を言っているのか分からない。しかし、記憶の中の僕はちゃんとうんうんと相槌を打っていた。
やっと聞き取れたのは、最後の一言。それだけは、突如スローモーションにも似た動きに変わっていた。
「――そなたが終わらせたいと思えば、開けると良い」
――
……思い出した。ポケットの中に手を突っ込んで、そこに固い立方体があるのを確認する。――そうだった。僕は、ずっとこれを持っていたのだ。
“終わらせたければ、開けるといい”。きっとあのおじいさんは、僕が記憶を失くすことを見越していたのだろう。そしてそうなった時の為に、これを持たせてくれていたのだ。
何故? 理由はわからない。わからないけれど、ループを終わらせるための鍵になってくれるに違いない。
僕は思い出した。思い出したなら、もう忘れてはならない。痛いぐらいに小箱を握る。小箱のことを忘れても、手のひらの痛みだけは覚えていられるように。そこから紐づいて、ちゃんと思い出せるように。
僕は――。
――僕は気がつくと、開けっぱなしのスーツケースをじっと見つめていた。両手は上蓋に置かれており、まさに今閉めようとしている所だ。
「そろそろ確認は終わったか?」
淡々とした声がする。勢いをつけて振り返ると、真後ろにいた曽根崎さんがギョッと身を引いた。
「な、なんだよ。私はもう終わったぞ」
「……曽根崎さん」
「何だ」
周囲に視線を巡らせる。見慣れた壁紙、天井の明かり、ごちゃごちゃの事務机。……疑いようもなく、曽根崎さんの事務所だ。僕は、始点に戻ってきたのだ。
「……パンツの替えは、多めが良いかと思いますが」
「幼児か、私は。大丈夫だよ、必要がありゃコンビニ行きゃ買えるから」
「でも同行しなきゃいけないのは僕なので……」
「だから幼児か、私は。一人で行くわ、そん時は」
訝しげな顔をする曽根崎さんの横で、僕はパタンとスーツケースを閉める。数秒、意味深な沈黙が訪れた。
先に口火を切ったのは、曽根崎さんのほうだった。
「なあ」
その声は、少し緊張しているようにも聞こえた。
「君、アンクレットは忘れてないか?」
もう一度振り返る。曽根崎さんの真っ黒な瞳は、思いの外真っ直ぐに僕を映していた。
「……」
今度の僕は、顔をしかめることも照れ隠しをすることもしなかった。同じく真っ直ぐ曽根崎さんを見て、頷く。
「はい、忘れてません。全部、ちゃんと覚えてます」
「……それは」
「覚えてる、というよりは……思い出したというか」
僕の言葉に、曽根崎さんの瞳が揺れた。何か言いたげに唇が動いたけれど、出てきたのはため息にも似た音だけだった。
崩れそうになったその人の肩を、両手で掴んで支える。
「すいません。ずっと忘れてしまってて」
ポケットの中にある小箱の存在を感じる。……大丈夫、僕は思い出した。前回のループも、この人との言葉も。
曽根崎さんは、大きな手で自分の口を押さえて目を見開いていた。そうでもしないと、感情のままに絶叫してしまいかねなかったのだろう。
「もう二度と、曽根崎さんを無かったことになんてしません。絶対に、二人でループを終わらせましょう」
けれど多分僕も、そんな決意だけでやっと立っていたのだ。





