7 天使と子供たち
天使、というものを僕は見たことがない。けれど、直感的にこれがそうだと確信した。
それほどまでに清浄だったのだ。あの姿を目にしただけで、罪の全てが浄化されていくかのような。
「……」
天使は、人間的な動きをしない。物憂げな微笑を貼りつけたまま、するすると床を滑っていく。少し遠くにいる僕には、全く気づいていないようだった。
(……いや、それでいい)
強張った手で、息すら漏れないよう自分の口を塞ぐ。
(僕は、天使に気づかれてはならない)
足が震えている。ここで初めて、自分の抱いている感情は恐怖なのだと理解した。
とにかく、殺せない以上ここはやり過ごさねばならない。しかし僕が息を殺していた時間は、そう長くはなかった。
「ア」
突如背後から聞こえた幼い声に、心臓が跳ねる。……振り返りたくない。でも、振り返らねば現状を知ることができない。
固まった筋肉を軋ませながら、後ろを見る。――絶叫を飲み込んだ。僕の腰にはあの四人の子供がしがみつき、大きく穴の開いた顔を向けていた。
勝手に体が動いていた。子供の頭にナイフを突き刺し、横に払う。子供は無抵抗に血溜まりに倒れた後、「アーーーーー」と空気を漏らしながら黒い霧を撒き散らし始めた。
けれど残る子供は、そちらに一瞥もくれない。その代わり、さっきよりも視線が低くなっているような……。
「ッ!?」
足首を浸す生温い感触に気づく。僕の体は、ずぶずぶと血溜まりの中に沈んでいた。
「アーー」
「アーーーーー!!」
「アーーーーーーーーーーー!!!!」
子供の顔に開いた穴は、今やはっきりと歪んでいた。その体は小刻みに横に揺れている。おぞましくて、もう一度ナイフを子供の一人に突き立てた。なのに今度はびくともしない。僕の足は血の海に取られたまま、沈んでいく。
闇が僕を呑もうとしていた。僕を同化しようとしていた。まずい。体が動かない。曽根崎さん。ダメだ。声を出したら気付かれる。また曽根崎さんが殺されてしまう。
――“また”、殺される?
闇の中で目を見開いた。忘れようとした記憶がとうとう脳の表層を突き破る。鮮明な光景が、僕の脳裏を駆け巡った。
――混乱する僕。赤い廊下を走る曽根崎さん。追ってくる子供達。掴まれる服。ナイフを取り出した曽根崎さんは、僕にしがみつく子供を切り裂くと、ナイフを投げて寄越した。
「君は逃げろ!」
僕の見た彼の体は、殆どが血の海に沈んでいた。
「私はもうだめだ……! 体、が……!」
昆虫の脚が曽根崎さんの後頭部を掴み、血の海に押し付ける。最初こそ長い腕は宙をもがいていたけれど、やがてフツリと糸が切れたように脱力した。
僕は叫ぶこともできなかった。真っ白になった頭で、がむしゃらに曽根崎さんの周りにある脚を切りつける。けれど全く手応えは無い。僕は何もできないまま、血溜まりに飲み込まれる曽根崎さんを見ていた。
僕は、闇と赤の混ざった世界にたった一人取り残された。いや、厳密に言うと自分一人というわけでもなかったのだ。遠くに、清浄と、美と、神聖の化身のような存在がいたのだから。
でも、その時にはもう全てがどうでも良かったのである。全身が氷のように冷えていて、二度と曽根崎さんをここに引き戻せない事実だけが頭を渦巻いていた。それだけが、僕の理解した全てだったのだ。
痺れた手でナイフを握り直す。機械的な動きでナイフを首に当てる。歯を食いしばり、力任せに押し込んで――
「景清君!」
ハッとする。記憶の泥から戻った意識で最初に見たのは、曽根崎さんの凄まじい形相。同時に、ずるりと僅かに血の海から体が持ち上がった。
一気に頭が覚醒した。僕は腕を掴んでいた彼の手を振り払い、まとわりついていた子供たちを蹴り飛ばす。曽根崎さんにナイフを渡した。彼は躊躇無く昆虫の脚のような子供の手を切り落とすと、這い上がる僕に再び手を貸してくれた。
「逃げるぞ!」
「はい!」
子供たちがうごうごと床から這い出てくる。血のまとわりつく気持ち悪さを感じつつ、僕らは必死で走った。――どれぐらいそうしていただろうか。突然曽根崎さんの足が止まった。彼は無言で近くにあったドアを開けると、強引に僕を押し込む。ドアと鍵の閉まる音。眼前に広がるは、あの時に見たものと同じ闇。幾分安全な場所に逃げ込めた僕らは、がくりとその場に崩れ落ちた。
「ハァッ……ハァッ……!」
「ゼェッ、うえっ、げほっ……!」
二人分の荒い息だけが、夜よりも深い黒の世界に満ちている。そのうち、僕じゃない方の息使いは、少しずつ嘔吐に近いものへと変わっていった。
「ああ、クソッ……! どう、すれば……!」
追い詰められた声だった。何か返してあげたかったけれど、僕も僕で呼吸するのがやっとである。生臭い空気を必死で肺に溜め、服の袖を使って顔に流れる血と汗を拭っていた。
少し遠くでは、また青い光がチラついている。……“天使”の発する光だ。だけど、最初に見た時よりずっと近づいてるように見えた。
いずれ、僕らはあの青い光に飲み込まれるのだろう。そう思った。
「……さっきは、すまなかったな」
吐いてすっきりしたのだろうか。割といつもの曽根崎さんに近い声色が、闇の中で響いた。
「君を……殺そうとしたこと。大体ここまで来ると、あとは苦しい死に方しかしないから……いっそのこと、私の手で楽にしてやろうと思った、のだが」
「いや……エフッ、迷惑、過ぎます、よ。ガフッケフッカフッ、よ、よしんば苦しい死に方しかしない、としても……ゲホッ、ぼ、僕に、選ばせてください……コホッ」
「……ああ。悪かった」
僕の左足首に、どろりとした何かが触れる。何かと思ったら、血でドロドロになった曽根崎さんの手だった。細い指の先で、僕のアンクレットを引っ張っている。
「君を……上手く殺せる時と、そうでない時がある」子供っぽい仕草に、大人っぽい落ち着いた話し方が被さる。
「割合としては、半々ぐらいだろうか。このやりとりも、もう何度目になるんだか」
「ケホッ……何度目かになるんだったら、そ、そろそろやめてくださいよ」
「おかしなことを言う。君だって忘れているくせに」
「……」
「とにかく、もう時間が無い。“アレ”が視界から離れなくなってしまった。子供達に殺されたくないのなら、自決するしか道は残されていない」
「……そう、ですか」
「そうだよ」
青い光のチラつきが止まり、段々と大きくなっていく。……僕らのほうに、向かってきているのだ。
「君は、どうしたい?」
なのに曽根崎さんの声ときたら、まるで迷子を導くような優しい色をしていたのである。





