6 別の世界
「……!」
今度は間違いなかった。僕は、この光景を知っていた。
鉄の匂いがする。一歩踏み出した足の下で、ばちゃんと液体が跳ねた。カーペットだと思っていた赤は、靴底を浸すに十分な血溜まりだ。
生臭い空気に呼吸が乱れる。胸が苦しい。……嫌だ。僕はこの先に行きたくない。
「アーーーーーーーーーーー」
無機質に間伸びした声がした。顔を上げると、数メートル離れた先に白い服を着た子供が立っていた。――心臓が止まった。何故なら、子供の顔には。
――子供の顔には、目も鼻も口も無かった。代わりに、目と口のあるはずの場所に縦に細長い穴が空いていて、「アーーーーー」と空洞に風が抜けるような音が漏れていた。
踵を返す。血濡れの床に足を取られて、思うように進めない。何度も転びそうになりながらも、僕は長い廊下を走り逃げた。
背後から追いかけてくる声は、今や四つに増えていた。アーー、アーーーー、アーー、アーーーーーーー。バラバラに重なる声が、廊下に反響している。でも振り返れない。もしあの顔が四つ並んでいるのを見てしまったら、僕は……!
「!」
突然、暗闇から伸びてきた手に腕を掴まれた。悲鳴を上げる前に引っ張られ、目の前でドアが閉まる。……声が、廊下を駆け抜けていった。
喉から出てしまいそうなほど激しい鼓動を押さえ、恐る恐る腕を掴んだその人を振り返る。
「……そねざき、さん?」
「……」
掃除道具入れの中にいたのは、見慣れた長身の男の姿だった。だけど、なんで? この人、部屋にいたはずじゃ……。
「……ここも、そう長くはもたない」
「え?」
曽根崎さんは僕の腕を引き、歩き出す。壁だと思っていた場所は、ただただ深い闇だった。とぷりと視界は黒にまみれ、彼の声と自分の心臓の音以外は何も聞こえなくなる。
「つまり私達にも時間は残されていないが……この闇の中ならば、多少の自由はある」
「な、何の話ですか?」
「……君は、何も覚えていないのか?」
いつもより冷たい彼の問いに、僕は「いえ」と曖昧な返事をする。……彼が何を言っているか、分からない。もっと状況を聞き出さなければならないのに、混乱する僕の喉は言葉がつっかえたようになっていた。
遠くの方に、ぽつんと青い灯りが見える。曽根崎さんは軽く舌打ちをすると、別の方向へと足を進めた。
「少し説明をしようか。薄々勘づいていると思うが、ここは私達の元いた世界ではない。別の世界だ」
「別の……?」
「ああ。私と君は、ここで延々とループを繰り返している」
「……時間を」
「もうまもなく私達は命を落とし、旅行出発直前まで意識が戻されることになるだろう」
「……」
「その上で、もう一度聞くが」
ふと曽根崎さんが立ち止まる。腕が動き、懐から鈍い光を放つ何かを取り出した。
ナイフだ。彼は造作もない手つきでそれを僕の首に突きつけると、切羽詰まった目で僕を見た。
「君は――本当に、何も思い出せないんだな?」
「な、何を……!?」
「思い出せないのなら、このループは無駄だったと判断せねばならない。とっとと君を殺し、始点に戻らねば」
「はっ!?」
耳を疑った。――僕を、殺す? なんで? いや、理由は言われたんだけど、その上でワケが分からない。
そもそもループって何? 覚えてないのかって何を? っていうか今日の曽根崎さん、あまりにも情緒不安定過ぎやしないか?
ともあれ、僕の取るべき道は一つだった。
「すいません!」
曽根崎さんにタックルをかます。怯んだ隙をついてナイフを奪い取ると、全速力で逃走した。
「ぐふっ! き、君……!」
「悪く思わないでください曽根崎! こうするしかなかったんです曽根崎!」
「や、やめろ……私から離れ、るな……!」
「さらば曽根崎!」
殺されたくない以上、ここはひとまず退却である。この闇の中なら、さっきの子供に見つかる心配もまず無いだろう。曽根崎さんがああなっている以上、今信じられるのは自分のみ。距離を取り、頭を冷やしつつ現状を把握しなければならなかった。
(……曽根崎さんは、この世界がループしていると言っていた)
走りながら、考える。僕も時間を遡ってみたことがあるから分かるけど、あれはそう簡単にできるものじゃない。だとしたら、やっぱり……。
(ここは、僕らの生きる場所とは別の世界なんだろう)
勿論、にわかには信じられない話である。それなのに、「そうに違いない」とすんなり受け入れている自分がいて驚いた。
そもそも、ずっと不安があったのだ。拾ったはずなのに消えていたハンカチ。どんどん悪化する曽根崎さんの精神状態。スーツケースから出した覚えの無い服。僕にとってリアルでなければならない世界は、常に違和感と矛盾を孕んでいた。
(まるで悪い夢みたいだ)
いつのまにか、僕はまたあの廊下に出ていた。ドアを開けた記憶は無い。広がる血の海を見渡し、汗でナイフを取り落としてしまわぬよう力を込めた。
血の中を、勇気を振り絞って進んでいく。ナイフだけは決して落とさぬよう気をつけていた。これはいわば命綱のようなもので、不気味な子供が出てきても振り回せば助かるんじゃないかと考えていたのだ。
(もしくは……自分の首を掻っ切って、“始点”に戻るとか?)
――いや、だめだ。弱気になるな。この世界が僕を殺そうとするのなら、逆にこっちから殺しにいかねばならない。曽根崎さんの様子がおかしいのも、彼がこの世界に閉じ込められているからだと考えれば納得がいく。だったら、僕がこの世界を殺し尽くしてやればいい。
そうやって歩いていると、十字路の右手側の奥に青い灯りが揺らめくのが見えた。……曽根崎さんと一緒にいた時にも、見た光である。彼は舌打ちをして避けたけど、情報が少ない僕としては何があるか確かめておきたい。意を決して、そちらへと足を向けた。
酷く頭が痛い。押し込めたはずの記憶が警鐘を鳴らしている。……だめだ、まだ思い出してはいけない。“それ”が起こる前に、僕が先手を打たねば。
(……曽根崎さん)
血が足元で跳ねる。僕以外に何者の姿も無いこの世界は、ひたひたとした死で満ちていた。
少しずつ光が近づいてくる。赤と黒の世界の中を上書きせんとする、絶対的な青。神々しいその色に、僕は誘蛾灯に集う虫のようにふらふらと吸い寄せられていった。
やがて立ち止まる。光の中に存在したものを目にした僕は、半ば惚けたようにそれを見ていた。
――この世のものとは思えない、美しさだった。背中に生える二対の翼と、憂いを帯びた中性的な横顔。清廉な白いローブを身に纏い、手には青い炎を灯す蝋燭を持っている。
“天使”だ。天使が、地獄を歩いていたのだ。





