5 ポンポンと背中を
もちろん抵抗しようとした。だけど相手は無駄に図体のでかいオッサンである。体格差にものを言わせられたら敵わない。
曽根崎さんは僕を部屋に押し込むと、ものすごい勢いで引き戸を閉めた。靴も脱がずに部屋の奥まで移動し、長い手足ですっぽりと僕を包む。こうなると、まるで巨大な蜘蛛に絡み取られたようだ。
間近に聞こえる曽根崎さんの息は、荒かった。目は限界まで見開かれ、びっしょりと汗をかいていて。なのに顔からは血の気が引いていて真っ白で、どう見ても尋常じゃない。
――彼に何が起こったのか。何を見たのか。それが現実のものか彼の妄想なのかは判断できなかったけど、確かなことがあった。
曽根崎さんは、怖がっている。だというのに、僕を守ろうとしている。
「……」
極限の状態で彼がそうしてくれた理由は、分からない。だけど多分、僕は困惑するよりもお礼を言わなければならないのだろうと思った。
しかし、それよりまず気道の確保が問題だ。ガタガタ震える大きな手が、しっかりと僕の鼻と口を塞いでいるのである。このままじゃ、死ぬ。曽根崎さんに守られてるっぽいのに、曽根崎さんのせいで死ぬ。
「……ッ」
だから僕はどうにか振り返って腕を伸ばし、奴のもじゃもじゃ頭を撫でてやったのである。どこか焦点の合わない曽根崎さんの目と視線を合わせて、ゆっくりとまばたきをして。これ、確か猫に対して警戒心を解くための方法だった気がするけど。今は細かいことは無視するとしよう。
何度かやっていると、ようやく曽根崎さんの目が僕を捉えた。僕はジェスチャーでトントンと彼の手越しに自分の口を叩き、しーっと人差し指を立てる。手を離しても大丈夫ですよ、僕は喋りませんよ、という意味だ。
……一応伝わったのだろうか。曽根崎さんは、ゆっくりと僕から手を離してくれた。
「……」
大きく深呼吸をしたあと、引き攣ったように笑っている曽根崎さんを真正面から見つめる。それから彼の背中に手を回し、子供にするみたいにぽんぽんと叩いてやった。曽根崎さんは一度ビクッと体を揺らしたものの、後は黙ってされるがままになった。
手から伝わる心臓の鼓動は、速い。とっとと落ち着かないと早死にしちゃいますよ、と心の中で呟いて、ぽんぽんと叩き続けた。
(……旅行を提案したのは、間違いだったかな)
憔悴しきった曽根崎さんの姿に、後悔が胸を苛む。こうなった理由は未だとんと不明だけど、いっそ無理矢理事務所を閉めさせてアホほどゲームに付き合ってやったり、近場の銭湯施設に放り込むほうがマシだったことは明白だ。
つまるところ、僕はまた独りよがりに突っ走ってしまったのである。良かれと思ってしたことだけど、結局は自分の理想を優先しただけで。時を戻せるなら、過去の自分をぶっ叩き、その事実を突きつけてやりたかった。
――そうしたまま、どれぐらい時間が経っただろうか。ふいに、曽根崎さんが顔を上げた。
「……」
しばらくじっと僕を見た後、ゴスッと肩に軽い頭突きをかまされる。どういうつもりだ。マジで猫か何かかアンタは。
それから彼は、嘘みたいにシャンと背筋を伸ばした。緊張した面持ちで立ち上がり、入口へと向かう。うっすらと引き戸を開けて、隙間から外を覗いた。
数秒の沈黙。でも、すぐに。
「……もう、大丈夫だ」
曽根崎さんは、へなへなとその場に崩れた。
「もう、喋ってもいい。……驚かせてしまって、すまなかった」
――だから、アンタは何を見たんですかと。喉元まで出てきた言葉は直前で消えて、「いいんですよ。温泉にでも行きますか?」と僕は何事も無かったかのように返していた。
その後、曽根崎さんは片時も僕から離れようとしなくなった。食事の時はもちろん、トイレに行く時さえ。
「いや、流石にトイレは困りますよ! 幼児か僕は!」
「じゃあトイレの前。トイレの前で待ってるから」
「幼児か、アンタは!」
丁重にお断り申し上げた。こういうの、後追いって言うんだっけ? 赤ちゃんがひたすら親の後をついていくやつ。
……まさか、恐怖のあまり幼児退行してるんだろうか。困ったな、ただでさえ離乳食みたいな食事を要求してくるのに。身長180センチ超えの三十一歳幼児とか、逆にこっちが恐怖でしかないのに。
「私は正常だ」
けれど理由を曽根崎さんに尋ねても、その一点張りだったのである。これはいよいよいけなかった。解決策が見えないんだもんな。
「まあ当初の予定通り、ゆっくり休めばいい。幸いにして、君はいい部屋を取ってくれたしな」
「えー、お土産屋さんだけでも見に行きません? 旅館内のでいいですから」
「嫌だ。部屋から出たくない」
「温泉は?」
「嫌だ」
……やっぱり、幼児退行か。イヤイヤ期でも来てるのかもしれない。
でもせっかく来たんだし、元を取るためにも温泉だけは行っておきたい。僕は畳まれた着替えとタオルを持つと、よいしょと立ち上がった。
(……あれ?)
けれど、ここでまた違和感を覚えた。……僕、いつのまにこんなもんを用意したんだ? さっき曽根崎さんを温泉に誘って、断られたばかりだったというのに。
いや、そもそもなんでこの状態の曽根崎さんを置いて、僕は部屋を出ようとしてるんだろう。おかしい。何かが変だ。
「……曽根崎さん。僕、先に温泉に行ってますね」
けれど僕の口は勝手に動いて、勝手に言葉を紡ぐ。僕を見る曽根崎さんの顔は、また引き攣った笑みを浮かべていた。
「だからアンタも準備して早く来てくださいよ」
「ああ、わかった。そこまで言うなら、私も用意して出るとしよう」
違う。曽根崎さんはそんなことを思っていない。彼は今や、諦めたようにどろんとした目をこちらに向けていた。
「じゃあ、行ってきます」
だめだ。嫌な予感がする。部屋を出てはいけない。曽根崎さんを一人にしてはならない。
じゃないと、また曽根崎さんが――。
……曽根崎さんが? 何だ? 彼に何が起こるんだ? この違和感の正体を僕は知っているのか?
僕は、何を忘れてるんだ?
引き戸の取っ手に触れる。指先に力を入れる。口を開けた空間に体を傾け、足はカーペットを踏む。
顔を持ち上げて見た廊下は、長く伸びていた。
――先が点になって見えないほど、長く長く伸びていた。





