3 迷子の末に
とはいえ、ここは温泉街に程近い現代日本の地である。そんな大層な問題ではない。
「景清君、スマホの地図アプリを見せてくれ。ここならまだ電波は届くだろ」
「えーと、はい、こちらです。僕らの今いる場所はここだから……道に戻るには、まっすぐ山を登れば良さそうですね」
「そう長く歩かなくても良さそうだ。GPS様々だな」
「もう無かった時代には戻れませんよね」
科学技術の恩恵に預かり、僕らは道無き道を歩いた。足場が良いとは言えないけれど、せいぜい十分も歩けば目的の道にまで戻れるはずである。
……はず、だったのだが。
「道、見えないな……」
「……」
二十分後。僕らはまだ、濃い緑の空気の中を進んでいた。
「地図上ではどうなってるんだ?」
「登山道に戻ってることになってます」
「ここが? この草まみれ木まみれの未開の地が? 嘘だろ君……うわっなんか柔らかいとこ踏んだ」
「そんなに言うなら曽根崎さんも自分のスマホ見てくださいよ。僕にばっか頼ってないで」
「どっこい、部屋に置いてきたんだ」
「この野郎」
それでも現代日本人かよ。思いっきり嫌な顔をしてやると、曽根崎さんは薄い唇をひん曲げてパキッと枝を折った。
「私に当たるな。恨むなら、GPSに頼りきり自力で迷わぬ努力を怠った自分を恨むがいい」
「そこはお互い様でしょうが。GPS様々って言ってたのはどこのどいつです」
「君だったような」
「しれっとなすりつけんな」
軽口を叩いていたが、胸中での僕はだいぶ焦っていた。……曽根崎さんを癒すとか言いながら、道に迷うなんてとんだ体たらく。わざと落ち葉を大袈裟に踏んで、ささやかに鬱憤を晴らしていた。
鳥が鳴いている。湿って柔らかくなった地面から、むっとするような強い土の匂いがする。びっしりと苔むしたあの岩が、最後に人を見たのはいつなのだろう。
額から落ちる汗を手の甲で拭った。……もう、観念したほうがいいのかもしれない。無闇に歩き回って消耗するより、体力があるうちに旅館に電話して助けを乞うべきだろう。そう考えて、スマートフォンに目を落とした時である。
「……あれ?」
ふいに、名前を呼ばれた気がした。顔を上げ、あたりを見回す。当然、曽根崎さん以外の誰の姿も見えるわけがなかったのだけど……。
「……ん? 曽根崎さん、あっちになんか見えますよ」
「見える?」
「はい。屋根っぽいものが」
少し登った所に見える、木の屋根を指差す。曽根崎さんはえっちらおっちら僕の隣に来ると、「ああ」と頷いた。
「山小屋かな」
「もしくは民家のある場所に出たのかもしれませんね。行ってみませんか?」
「……まあ、そうだな。他に道も無いし」
山小屋でも民家でも構わない。いずれにしても、目立つ建物であることには変わりないのだ。助けを呼ぶなら目印になるだろう。僕はホッとして、だいぶ疲れの溜まった足を持ち上げた。
一歩一歩近づいていくたびに、屋根の数が増えていく。同時に、子供たちの声も聞こえてきた。どうやら運のいいことに、僕らは山中の集落に辿り着いたらしい。
「良かったですね、これで助けを呼ばなくて済みそうです。帰る道も教えてもらえると思いますよ」
「そうだな。……」
「どうしました?」
「いや、なんでも」
歯切れの悪い返答に、もう少し心配してやろうかと声をかけようとする。だけど、突如聞こえてきた男の人の大きな笑い声に気が逸れてしまった。
この声量なら近くにいるに違いない。少しの段差を降りて開けた場所に出た僕は、急いで声の主を探した。畑の中に、まばらに五軒ほど古い家が建っている。典型的な限界集落のようだ。
道を聞きたいと思ったのに、パッと見る限りどこにも人はいない。不思議に思いつつ探す僕の足に、ドンとぶつかってくるものがあった。
「わーらった、わーらった」
見下ろすと、小学生ぐらいの子供たちが僕にまとわりついていた。一、二、三……全部で四人か。子供たちは僕の足を障害物にして鬼ごっこを繰り広げた後、「わーらった、わーらった」と囃し立てながら走り去っていった。
「……?」
どういう遊びなんだろう。流行ってるのかな?
「あ」
すると、その子たちが今までいた場所に何かが落ちているのに気づいた。灰色のハンカチである。汚れがついていない所を見るに、さっきの子たちの誰かが落としたのだろか。
「待て」
だけど子供たちを追おうとした僕は、曽根崎さんに引き止められた。
「君、今何を話していたんだ?」
「何って……大したことじゃないですよ。一方的に囃し立てられていただけで」
「囃し立てられていた?」
「あれ、見てませんでした? まあいいや、僕ちょっと行ってきますね。渡さなきゃいけないものが……あれ?」
腕を振り払って走り出そうとして、驚いた。左手に持っていたはずのハンカチが、跡形も無く消えていたのである。
「……なんで?」
「どうした?」
「あ、いえ」
落としたのかな? でも辺りを探せど、ハンカチはどこにも見当たらない。
……気のせいだったのか? いや、そんなはずはない。まだ僕の左手は、しっかりと布の感触を覚えていた。
「……曽根崎さん」
「なんだ?」
「ハンカチ見ませんでした?」
「なんだそれ。知らん」
「知らんかぁ」
万に一つの可能性で、曽根崎さんが目にも止まらぬ速さでスったのかもと思ったんだけど。まあそんなことする意味は無いか。
「……ハンカチなら、あとでいくらでも買ってやるから」
考えていると、少し乱暴に腕を引かれる。一言文句を言ってやろうと曽根崎さんを見上げた僕だったが、そこでようやく気づいた。
「早く人を探して、この集落を出よう」
――彼の顔は酷く青ざめ、口角は引き攣ったように上がってしまっていることに。





