2 パワースポット
黒い石の敷き詰められた日本庭園の向こうに、大正ロマンな風情の家屋が立ち並ぶ。未訪の地へと到着した僕らは、格式高い旅館の一室にいた。
「なるほど、温泉」
旅館の受付で貰ったチラシを指で弾き、曽根崎さんは頷く。
「効能ひしめく湯に肩まで浸かり、サウナと水風呂の出入りを繰り返したら、夜はマッサージを頼んでゆるりと過ごす。そういうプランか?」
「ふっふっふ……それも勿論癒されるでしょうけど、僕を舐めてもらっちゃあ困ります!」
「まだあるのか」
「当然!」
なんせ今日は、曽根崎さんを念入りに癒し尽くさないとならないのだ。そんなもんで終わるはずがない。僕は勢いよくカーテンを閉めると、仏頂面を振り返った。
「早速準備して出かけますよ! ちゃんと替えの服は持ってきてますよね? 着替えて、ついでに運動靴に履き替えましょう!」
「部屋でゆっくりしたい」
「ゆっくりするならどこでもできます! 旅行に来たなら、そこでしかできないことをしないと!」
「君がいればなんでも特別だよ」
「すげぇロマンチックなセリフですけど、棒読みなので加点はありません」
「クソッ」
曽根崎さんがモタモタと着替えている間に、地図アプリを開いて目的地を確認する。一応看板はあるらしいけれど、なんせ山中にあるのでうっかり道を間違えてしまったら大変だ。
「まあこの辺なら大抵電波飛んでいるようだし、そこまで心配はいらないだろ」
「覗かないでくださいよ」
「っていうか登山をするのか?」
「登山というほど大げさでもないですけどね。この旅館の裏に山があって、そこにちょっとしたパワースポットがあるんですよ」
「パワースポット」
「はい。どんな場所かは行ってみてのお楽しみってことで」
「どうせ滝かでけぇ岩」
「そういうこと言わない!」
トレッキング用の服を取り出すために、スーツケースを開ける。ここでふいに新幹線の中での違和感を思い出し、忘れ物が無いか確認してみた。歯ブラシ、着替え、充電器……うん、ちゃんと持ってきてる。やっぱ気のせいだったのかな?
「……山登りなんて、逆に疲労が溜まるだけだと思うがな」
「たくさん動いて、お風呂に浸かって、たくさん食べて、たくさん寝る! 結局、健康的生活が一番疲れが取れるんです!」
「む、布団を発見。掛け布団も質が良いものだし、横になってるだけでみるみる癒されそうだ」
「敷くな敷くな」
「子守唄歌ってくれ」
「寝るな寝るな」
往生際の悪いオッサンを布団から引きずり出す。そこまでして山登りしたくないのか。どんだけ出不精だ、アンタは。
ブーブー言う曽根崎さんの服を半ば無理矢理着替えさせつつ、僕は深いため息をついたのだった。
「ほら、やっぱ滝だ」
そして例のパワースポットにて。ドドドと飛沫を上げる滝を帽子のつばの下から見上げて呟く曽根崎さんに、僕は拳を握って力説した。
「ええ、仰る通りバッチリ滝です! どうです、マイナスイオンで癒されるでしょう!?」
「レナード効果の話か?」
「れな……?」
「まあ蔓延してるオカルトや科学的検証のほどはさておき、マイナスイオンと定義されているものなら旅館のドライヤーでも浴びられるぞ」
「それとは量が違います!」
「じゃあ一晩中つけっぱなしにして枕元に置いておこう」
「肌の水分飛んで、朝にはミイラみたいになってそうだな……。屁理屈はいいから、もっとこっちに来てくださいよ」
曽根崎さんの腕を引いて、滝の近くに寄る。絶え間なく落ちる水と、深い色に染まる滝壺。木々はさざめき、葉の隙間からこぼれた木漏れ日が美しい。清涼な空気を肺に満たすように、僕は大きく深呼吸した。
「……しかし、思ったより大きいな」ともすれば滝の音に飲まれてしまいそうな声で、曽根崎さんは言う。
「ざっと二十メートルぐらいか」
「はい! この滝にまつわる民話も残っているんですが、聞きますか?」
「一応」
「昔々、なんでも食べちゃう悪食の竜がいてですね。作物を荒らすだけじゃ飽き足らず、とうとう村の人が大切にしてた四つの神様を食べちゃったんですって。すると竜の体は飲み込んだ神様の力で浄化されて、滝に姿を変えて神様の代わりに村人を守るようになったそうです」
「ふぅん。ちなみに、その四という数字には意味があるのか?」
「神様の姿を模した祠があるみたいです。どこにあるのかまでは調べてませんが」
「……妙だな。祀る神は食われたというのに、祠だけ残っている。一体何のために……」
そこまでである。僕は、親指と人差し指をくっつけた手で曽根崎さんを制した。
「百円」
「これもペナルティ範囲かよ。だったら君の民話語りももアウトじゃないのか?」
「民話はセーフ、考察はアウト」
「横暴だ。……しかし、君は気にならないのか?」
「なりませんよ。お腹の中にいる神様の供養の為とかじゃないですか?」
「神を供養、ねえ。神とはいえ、竜に食われた時点で零落したと見做されないのか? だとすると……」
「百円」
「おや、百円だなんてとんでもない」
いきなり曽根崎さんに手を取られて、ギョッとする。カサリと紙の感触がした。
「五千円払うよ」
「ごせっ……!?」
「どうだ? 今から私と祠の在処を調べて、見学に行かないか?」
「うううっ……!」
提示された申し出と金額に、戸惑う。でも今日だけはその手に乗るわけにはいかないのだ。僕はぎゅっと曽根崎さんの手を握り返すと、濃いクマを引いた鋭い目を睨みつけた。
「だ、だめです! だって今は、『曽根崎慎司癒しまくりスペシャル豪華ツアー』ですから!」
「ほう?」
「旅行中はオバケ関係のものから離れて、リフレッシュしてもらうんです! だから、お金はもらえません!」
「そうか。君は、そこまで私のことを……」
「はい!」
「じゃあ早く私の手ごと握ってる金を離せよ」
「そうしたいのは山々ですが、体が勝手に!」
「離せ」
「体が! 勝手に!」
「離せ!」
そこから苦労の末、ようやく五千円を手放した僕である。身が引き裂かれるような悲しみだった。
「温泉で癒せばいいだろ」
「そうします……」
「なら早く帰るぞ。まだ陽は高いが、山道は少し陰っただけでも足元が見えにくくなるから」
「はい……」
すっかり気持ちが落ちてしまった。っていうか、いちいち金をチラつかせる曽根崎さんが悪いのである。八つ当たりみたいに、ズカズカと山道を踏んで進んでいく。
その荒っぽい心情が、仇となったのだろうか。
「……迷った」
「マジか」
数十分後、僕らは見事に道を外れて藪の中にいた。





