1 出立
お財布持った、着替え入れた、充電器入れた、折り畳み傘入れた、歯ブラシも入れた……。
よし、十分だろう。スーツケースをパタンと閉めた僕は、真上から覗き込む雇用主を見上げた。
「僕は準備できましたよ。曽根崎さんは終わりました?」
「まあ、うん。しかし、スーツケースのレンタルは不要だったんじゃないか? 買ってしまえばそれで」
「これは僕のお金じゃありません! 全部曽根崎さんのです!」
「今更律儀なもんだ。旅行期間時給換算して懐に入れてるくせに」
「仕事ですから!」
「方便だろ、それ」
僕の両肩に手を乗せ、もたれかかってくるのが鬱陶しい。払いのけて、スーツケースを起こした。
「仕方ないでしょう。時給貰わないと、いよいよ私的な旅行みたいになりますし」
「慰安旅行みたいなもんじゃないのか」
「仕事ですよ。公私は分ける方向でいきましょう」
「ふぅん」
ちょっと笑われた気がする。なんだなんだ、細かいこと気にする男はモテないんだぞ。けれどそれにツッコむ前に、曽根崎さんは背筋を伸ばした。
「それじゃ、そろそろ出るとするか」
いつものスーツとは違って、ただのシャツに軽くジャケットを羽織った服装。どちらかというとカタイ服なのに、これだけでもだいぶ雰囲気が変わるから不思議だ。
「では行こうか。君の言う、『曽根崎慎司癒しまくりスペシャル豪華ツアー』とやらに」
「はい!」
「一応聞くが、ネーミングに疑問は感じなかったのか?」
「なんで?」
「あ、なんでもない。多分触れないほうがいい話題だコレ。行こう行こう」
僕を残してスーツケースを引き、スタスタと歩いていく。さて、僕も行くとしよう。プランは頭に叩き込んでるけど、最終確認としてタクシーの中でも見ておこうかな?
「なあ」
けれど、曽根崎さんが事務所のドアを開けようとした時である。彼はふと僕を振り返った。
「君、アンクレットは忘れてないか?」
「なんですかいきなり」
「いいから。どうなんだ?」
「どうって……」
唐突な質問に、僕は顔をしかめる。――アンクレットとは、以前曽根崎さんから貰ったオニキスのついた黒いアクセサリーのことである。お守りの意味もあるのと、デザインがオシャレなことで、いつもこっそり左足首につけていたのだけど……。
何故、今、確認した。僕は曽根崎さんを脇へ寄せ、ドアノブを握った。
「わざわざ答える必要も無いでしょう。タクシーも待たせてるんですし、早く行きましょうよ」
「……そうか」
「そうですよ」
ドアを開け、スーツケースを外に引っ張り出す。けれど曽根崎さんの顔を盗み見たその刹那。彼の表情に、僅かな翳りが差しているのを見てしまった。
……え、明言されたかったのか? 「アレつけてる?」「つけてるつけてる」「やだー!」っつってやりたかったのか。女子高生か僕らは。
でも小さな罪悪感も、見てしまえば無視することはできなかった。
「……ア、アンタがつけてるんなら、十分でしょう」少し緊張してどもってしまったのが、悔やまれる。
「だからいいじゃないですか。別に僕のがどうとか、わざわざ聞かなくても」
「あ、すまん。考え事してて聞いてなかった」
「なんでだよ!」
聞けよ! 突然蔑ろにするな!
オッサンの尻を軽く蹴り、タクシーの待つ階下へと急ぐ。こうして僕らは、二泊三日の旅行に出かけることになったのである。
あらかじめ買っておいた切符を見せて、新幹線に乗り込む。ちょっと悩んだけど、指定席を買っておいて良かった。早く席を取らねばならないという焦りを感じなくて済むからだ。
「グリーン席にはしなかったんだな」
「はい。僕の金銭感覚では抵抗がありましたので」
「そういう時は代われ。躊躇わず購入ボタンを押してやるぞ」
「社長印みたいなシステムですね……うわっ!?」
「おい、大丈夫か?」
棚にスーツケースをしまおうとして手を滑らせたら、背後にいた曽根崎さんが片手で支えてくれた。……不本意ながらも、助かった。お礼を言って、席に座る。
「まあのんびり楽しく行きましょう。何なら行きは寝ててもいいですよ? 僕、ちゃんと起こしますから」
「君こそ寝てていいよ。準備やら何やらで疲れてるんじゃないか」
「僕には駅弁を食べるという使命がありますので!」
「ウキウキで買ってたもんな」
なんせこの為に、朝ごはんを食べずに新幹線に乗ったのだ。曽根崎さんは食べ慣れてるかもだが、僕にとって駅弁はテレビの特集で見るだけのもの。めちゃくちゃ楽しみにしていた。
ワクワクを抑えきれないまま袋から取り出し、そろそろとお弁当の蓋を開ける。期待通り、美味しそうなおかず達が迎えてくれた。
「わー、ほら見てください! たくさん具が入ってますよ! ご当地ものかな! ご当地ものですよね!? 曽根崎さんの分も買ってありますから、一緒に食べましょう!」
「本当だ、私の分のノルマもある」
「朝食をノルマ言うな! いただきます!」
不届きな発言は無視して、一口食べる。途端に、口いっぱいに幸せな味が広がった。
「ふわー! しいたけ美味しい! お米美味しい!」
「……いつ見ても、君はうまそうに食うな」
「実際美味しいですから!」
「ふーん、これ美味しいのか」
味覚がぶち壊れている曽根崎さんだけど、そう聞くと悪い気はしないのかもしれない。そこからは黙って、もくもくと駅弁を口に運んでいた。よしよし、食べてる食べてる。この旅行中なら四六時中曽根崎さんを見張れるから、彼がご飯を食べ損ねる心配は無いだろう。いや僕はこの人のなんなんだよ。
「ん?」
ここで僕は、ふと窓の外に光るものを見つけてそちらを向いた。あれ、なんだろう。一面キラキラしてて……。
「曽根崎さん! 海ですよ、海!」僕はべたりと窓に張りついた。
「窓の外、海が見えます! キラキラしててすごく綺麗です!」
「太平洋か。この辺だと波も高いから、海水浴には適さないな」
「あ、泳げないんですね。あんなに綺麗なのに……」
「あるいは恐ろしいからこそ、美しく見えるのかもしれん。そうだ、海にまつわる怪異といえばこんなものがあるんだが」
「追い討ちをかけるな! この旅行中はそういうの無しって言ったでしょう!」
「今聞いた」
そういえばそうかもしれない。いやいや、この旅行の目的は、曽根崎さんに普段の怪異事件から離れてもらうことなのだ。なのに怪異の話をするなんて、本末転倒である。
「なら今から無しです。怪異の話するたびペナルティ発生。僕に百円支払うことになります」
「……ちょうど五年ほど前に、ある若い夫婦が海辺に一軒の家を買ってな。バブル期にバカスカ建てられた別荘のリフォーム物件で格安だったとはいえ、それにしたって安過ぎると」
「財布出しながら話すな! そこまで怖い話してぇか!」
困ったオッサンがいたものである。これだからオカルト好きは。
そんな話をしている内に、新幹線はあっという間に僕らを目的地に運んでくれた。疑うまでもなく、時間通り、間違いもなく。
(……ん?)
けれどそんな中、僕はふと違和感を抱いたのである。
「……」
「どうした?」
「い、いえ。何も」
怪訝そうな顔でこちらを見てきた曽根崎さんに片手を振って否定し、座り直す。……何か、忘れ物でもしてきたかな? 気になったけど、棚にあるスーツケースを調べることもできない。僕はよくある気のせいとして、ぬるいお茶と一緒にこの微かな不穏を飲み下してしまったのである。





