番外編2 おばけアパート4
体が、動かない。眼前の光景が脳の奥に沈めていた恐ろしい記憶に重なって、考えることすらできなくなって。僕の前で、真っ黒で細長い影が動いて――
「ラァッ!!!!」
「ぎゃーっ!!!!」
――曽根崎さんが、クローゼットを蹴り壊した。
マジで蹴り壊した。嘘だろ曽根崎。ここ人んちだぞ?
しかし同時に聞こえたのは、知らない男の悲鳴である。
「うわっ、わっ、わっ……な、なんだお前!」
「それはこちらのセリフだな。そんな所に潜んで一体何のつもりだ?」
おっそろしく冷たい目をした曽根崎さんの下にいたのは、三十代ぐらいの男の人。何度も染めたらしい髪は傷んで、だけど染め直す余裕が無いのか上半分が地毛の色になっている。服の裾とかもビロビロで、なんとなくだらしない印象を受ける人だ。
「あれ、画下じゃん」
「し、椎名……」
「何してんだ?」
と思ったら椎名さんの知り合いだった。画下と呼ばれた男の人は、わたわたと周りに散らばった赤く発光する小さなボールをかき集めている。どうやらこれが光る目玉の正体のようだ。
「ど、どういうことですか……」
「どうも何も、この部屋だけはコイツの自作自演だったんだよ。私達を誘き寄せて、わざと怪現象を作ってたってことだ」
吐き捨てる曽根崎さんから、画下さんは距離を取る。代わりに椎名さんに向かって、怒鳴り声を上げた。
「おい、どうなってるんだよ、椎名! 有名で影響力のある霊能力者を連れてくるって言ってたじゃねぇか! ソイツ使えば、ここが心霊物件として有名になるから物好き連中に売り出せるって!」
「いや、言ってねぇよ? 俺が言ったのは『怪異案件ではそれなりに実績のある男を知ってる』ってのと、『おばけアパートなんてあったら面白いよなー』ってのだけ」
「はあああっ!? 聞いてねぇし!」
「そりゃあ、さっき君が言ったことは俺言ってねぇもん」
……ロクなお友達じゃなさそうだな。聞けば、画下さんは格安でここのアパートを買い取ったはいいものの、あまりのボロさと度重なる怪現象(実際は老朽化による弊害)で管理会社すら決めることができず困っていたようだ。で、思いついたのが、いっそおばけアパートとして売り出すこと。そうすれば、抜けた床の修繕費なども「そういう雰囲気だから」とごまかすことができると考えてのことだが……。
「そんな甘い話があるわけないだろ。社会舐めてんのか」
曽根崎さんがバッサリ斬り捨てた。これには若輩者の僕も同意である。
「家賃を値切られることはあっても、その逆は無いだろうよ。残念ながら、このアパートは古いだけでオバケなんざはいない。ネズミは除くが」
「ぐ……!」
「お分かりいただけたなら私は帰るぞ。椎名、金は期限までに指定された口座に振り込んでおけ」
「はいよー。そういうわけだ、画下。お金用意しといてなー」
「は、話が違うだろ! お前は祓い屋なんだから、霊が出なけりゃ金を払う必要は無い!」
「祓い屋を名乗った覚えも、契約を交わした覚えも無いがな。“オバケはいなかった”という事実の確認も、立派な成果の一つさ。君は調子が悪いからと医者に行き、健康と分かった瞬間同じことをほざくのか」
「違っ……! ……ほッ、本当だな! 本当に霊はいなかったんだな!?」
「くどい。というか、先程からどうも言っていることが支離滅裂な……」
ここでふと、顎に手を当てた曽根崎さんが長い体を折って男の顔を覗き込んだ。数秒の後、薄い唇がニィと歪む。
「……そうか。この部屋には、“いる”のか」
彼の一言に、男は短い悲鳴を上げた。彼の目は何故か、曽根崎さんじゃなくキョロキョロとあちらこちらに泳いでいる。
「椎名、お前が言ったこの部屋の怪談は誰から聞いたものだ?」
「へ? 画下からだけど」
「ふむ。……なあ画下さん、多少の嘘は混ぜているようだが、二〇四号室の怪異は概ね事実。そうじゃないか?」
「……!」
画下さんの顔色が、変わった。真っ青になって、カチカチと歯を鳴らしている。
「かつてこの部屋では、あなたと関係のあった女性が首を吊って死んだ。そんなあなたが、何故このアパートを買ってまで住み続けているのかは分からないが……。察するに、怪異現象を認めたくないといった所か」
「あ……」
「もし自分が引っ越して、次に住んだ者が自分の見たものを見なければそれでいい。しかし、もし見てしまったら? そうすれば、おのずと自分の見ていたものが事実だと突きつけられてしまう。――女の霊は実在したのだと、証明されてしまう」
「ちが、いや、そうじゃ……」
「だが、部屋が他の誰にも貸し出されなければどうだ。他者による証明は絶対に為されない。あとは君がいくら恐ろしいモノを見ようとも、決して信じなければそれで済む話だ」
「……ッ」
――そうか。だから画下さんは住み続けるしかなかったのか。女の霊がいることを、誰にも証明させない為に。
だけど……。
「さりとて、不在の証明はとてつもなく困難である」
曽根崎さんは、ギョロギョロと動く画下さんの目を興味深げに見ていた。
「だから君は、私達を部屋に招いた時にこんな馬鹿げた仕掛けを施したんだ。万一私が本物の霊能力者だった場合に、女の霊を見つけてしまわないように。もっと目立つもので、私たちの目を引いたんだよ」
ようやく僕は、この部屋の圧迫感の正体に気づく。……ここには、隙間が無いのだ。全てぴっちりと閉め切られ、家具も四角いものばかりで。
「全ては、部屋に取り憑く女の霊を証明させない為。君はあの手この手で、自分の見えるものを否定しようとしている」
男の目が、ビタリとある場所で止まった。それは、曽根崎さんが蹴り壊したクローゼット。割れ目ができたそこには、まさしく隙間ができていた。
「――君が囚われているのは、霊ではない。悪魔の証明という罠だ」
画下さんには、何が見えているのだろう。彼の呼吸はいよいよ荒くなり、額にはびっしりと脂汗が浮いている。そんな画下さんに、曽根崎さんはゆっくりと告げた。
「死ねば、人は、終わる。どこで死のうと、どんなに想いを持っていようと、心臓が止まれば、全てそこまでだ」
「……え、あ……」
「ここには、何もいない。今すぐ金を持って、近くのホテルを借りろ」
「……」
「行け」
「ッ!」
弾かれたように、画下さんは跳び上がった。それから大急ぎでタンスを漁り、お札を何枚か掴むと外へと飛び出していく。
呆気に取られるのは、残された僕と椎名さんである。
「な、何が起こったんですか……?」
「別に。彼が一番欲しい言葉を与えてやっただけだよ」
「それって、霊はいないって言質ですか?」
「無論、一時的な処置でしかないがな。椎名、彼が貴様の友人だと言うなら、心理カウンセラーか精神科か紹介してやれ。あの精神状態のままだと遅かれ早かれ何かやらかすぞ」
「そう?」
「そうなんだよ。普通の人間はな」
「そっか。じゃあそうするよ」
「あと、最後は面倒だったから追加料金をもらうことを今決めた」
「あー、俺知ってるぜ! それ嫌がらせって言うんだ!」
「嫌がらせと思うならやり返せばいい。例えば金輪際、私の前に姿を見せないとかな」
「それ嫌がらせになるのか? 俺に会えなくなったら悲しい?」
「喜ばしい」
「ダメじゃねぇか!」
空っぽになった部屋で、曽根崎さんと椎名さんが言い合っている。どうしてかその光景が面白くなくて、僕は黙って玄関のほうへと行った。
「……あれ」
けれど、そこで妙なことに気づいた。入ってくる時にはあったはずの白いヒールが、無くなっていたのである。
靴箱も無いので、隠す所があるわけでもない。まさか、画下さんが外に出る時に持って行ったとか?
「……!」
――次の瞬間、誰かの視線を感じて振り返った。粘つくような、嫌な視線。まるで監視されているかのような、感じているだけでじわっと汗が滲んでくるような。でも、部屋にはやっぱり誰もいない。曽根崎さんと椎名さんがいるだけで、他には何も。
……何も? 本当に?
――もし、今の僕が、ここからは見えないあの壊れたクローゼットの隙間を見たならば……。
「……か、帰りましょう、曽根崎さん」
「うん? ああ、そうしよう。いいな、椎名。次に私に会いに来る時は菓子折り付きだ。それが礼儀というものだからな」
「あ、そう? 洋菓子? 和菓子?」
「あんドーナツ」
「どっちだ……?」
「その場のノリで椎名さんをいじめないでください。ほら、早く」
曽根崎さんの服の袖を引いて、急いで部屋から出る。外に出ると、少し冷えた空気が肺に溜まった澱んだものを追い出してくれる気がした。
「……地縛霊って、その場から動けないんですよね?」
「ああ、そうだが」
「なら、良かった。行きましょう」
僕らは足早に、おばけアパートを去っていく。曽根崎さんはしきりに今回の案件に対する愚痴をボヤいていたが、僕は生返事を繰り返すまま彼を明るい道へと急がせるのだった。
おばけアパート 完





