25 その感情の名は
阿蘇さんにお茶を入れてこようと思ったけれど、どうしても田中さんとの会話が気になってしまう。僕は、足を止めて耳をそば立てていた。
「ええ、場所はごく一部の人しか知らないと。ちなみに田中さんは? ……まあ、そうでしょうね」
秘密にされたらしい。となると、場所は永遠に僕らには分からないわけだ。
そっちのほうがいいだろうな。できることなら、もう二度と関わりたくない自分がいる。
「で、溶けた死体から検出された成分は突き止められましたか? ……ふむ、まだ時間がかかると。現状日本の科学力では検知できるか怪しいのでは。……まあ、海外に出すにはリスクが高いですが。しかし、片田博士の捜索も進捗は芳しくないんでしょう? ……いや、椎名に頼るのはいかがなものか。アレはああ見えて無謀ではないので、自分の身に危険と分かればとっとと逃げるやもしれませんよ」
曽根崎さんは、僕や阿蘇さんにも聞こえるようわざと声を張って話してくれているようだった。阿蘇さんは和菓子の二個目に手をつけたので、聞いてない気もするけど。
「ああ、はいはい。景清君ですね。そこにいますよ、代わりましょうか」
なんといきなりご指名が入った。曽根崎さんが差し出した黒のスマートフォンを受け取り、耳に押し当てる。
『やあ、ガニメデ君』
「だから景清ですって」
『おやおや、今更謙遜かい? 美しいものは讃えて然るべきさ。特に君は心も清らかなんだ。胸を張って絶世の美少年の名を賜るがいい』
もう何から突っ込めばいいか分からない。気取ったバリトンボイスは、今日も絶好調である。
「おしゃべりしたいだけなら切りますよ。何か御用があるならお早めに」
『なんだい、もう少し他愛無い言葉遊びに付き合ってくれてもいいじゃないか。もしくはあれかね。君との通話には、テレクラのごとく金銭が発生するというのかね』
「テレクラ?」
「あー、景清君代わってくれ。教育上よろしくない単語が聞こえた」
「代わるのは全然いいですけど、曽根崎さんにだけは教育云々を言われたくないなぁ」
『彼は歩く有害図書みたいな男だからな』
「そんな! 僕は曽根崎さんを歩く有害図書だなんて思ったことありませんよ!」
『ガニメデ君、繰り返しちゃだめ!』
「スマホを寄越せ。今から回線越しに許されざる呪文を唱えてやる」
ほどほどに曽根崎さんの怒りを買ったところで、ようやく田中さんは大人しくなった。
『本題に入ります』
「はい」
『このたびは、僕の無理難題を聞いてくれてありがとう。事件に携わった全ての者を代表して、君に礼を言うよ』
「……」
僕が、呪文を使って三条の記憶を消してもらうよう曽根崎さんに頼んだことを話しているのだ。僕はまた、胸の奥がチクリとするのを感じた。
「……こういうこと、もうやめましょうね。曽根崎さんを利用するのも嫌ですし、そもそも三条とか普通に生きてる人を巻き込むのも良くないです」
『そうだね。僕も常そう思うからこそ、こういったヒトの脆弱な脳では処理しきれない事件は、財団員であっても極力関わらせないようにしている』
「ええ」
『しかし、そうか。君もそういうことを言うようになったのだな』
田中さんの声に、感慨深げな色が宿る。
『思えば、君もかなりこちら側に来てしまったものだ』
何気ない一言だった。けれど田中さんのその言葉は、自分でも信じられないぐらい深く胸を抉り抜いた。
ズキズキと痛み跳ねる心臓を、手で押さえる。僕は頭の中で、いつか曽根崎さんに告げられたことを思い出していた。
『君は、私の正気の錨だ』
――狂気に落ちる彼を、日常に繋ぎ止める。“普通である”僕は、“異常に身を落としかける”曽根崎さんにとってそういう存在なのだと、かつての彼よりそう定義づけられたことがあったのだ。
ああ、確かに以前はそうだったのかもしれない。だけど彼の隣に立ち、共に怪異に立ち向かいたいと思う今。僕は必然、曽根崎さんの住まう異常の中に身を置かねばならなくなった。
今の僕では、曽根崎さんの正気の錨たり得ない。日常にいない僕では、曽根崎さんを狂気の淵から連れて帰ってこられない。救い難いほど明確に突きつけられた事実は、自ずと僕の呼吸を速めていた。
「――景清君?」
「……あっ、えっ」
だけどハッと我に返る。目の前に、曽根崎さんの顔があった。その後ろには、阿蘇さんの顔も。
「どうした。何を言われた?」
「……い、いえ……別に、大したことじゃ」
「言われたんだな」
曽根崎さんが僕からスマートフォンを取り上げる。それから二言三言言葉を交わし、ピッと電話を切った。
まだ指の先は冷たく、心臓はバクバクとしている。そんな僕の手を阿蘇さんは黙って引いて、ソファに座らせてくれた。
大きな手でわしわしと頭を撫でられる。普段は鋭過ぎるぐらいの目つきの人だけど、こういう時は本当に優しい目をしてくれると思う。
「大丈夫か?」
「あ……は、い」
「甘いもの食べろ。ほんと美味しかったよ、これ」
峰柯さんのお土産が大活躍だ。口の中に広がる甘い味に、少しだけホッとした。
「……何を言われたかは聞かんが、田中さんの言うことだ」向かいのソファに座った曽根崎さんが、長い脚を組む。
「話二割で聞いたほうがいいぞ」
「半分もいかないんですね」
「耳を貸してやるだけ上等だ。気にするなってことだよ」
「……そう、ですね」
分かっていた。分かっていたのは田中さんへの対応のことではない。彼の言が、どうしようもないほど核心をついていたことだった。
――でも、だけど。気持ちが落ち過ぎてしまわないよう、ぎゅっと拳を握って堪える。阿蘇さんは、僕に飲み物を取ってくると言って席を外していた。
「……今の僕にだって、力はあります」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
そうだ、落ち込んでなんかいられない。何故なら今は、今だけは僕にも強い力があるのだから。
――そう、田中さんから貰った大金という力が!
「曽根崎さん、ちゃんと今度の連休は空けてくれますよね? 僕、アホほど癒されまくる旅行プラン立てたので!」
「空けてる空けてる。しかしなぁ、金の使い途が無いから君にあげるとは言ったが、無理して私に使わんでも」
「アンタ一人だけだと、日がな一日旅館にこもって終わるでしょうが! させませんよ! 僕が連れ出して、骨の髄まで疲労を回復させてやりますからね!」
「はいはい、楽しみにしてるよ」
「あ、ちゃんと曽根崎さんが寄りたいって言った場所も組み込んでますよ。ちなみにここ、何があるんですか? 普通に下町の住宅街ですけど」
「行けば分かる」
「わかりました。そちらも楽しみにしてます」
「楽しみ……」
僕の返事に、曽根崎さんは不思議そうに首を傾げた。すんなり表情が出ていたことに少し嬉しさを感じて、でも何も言わずに彼にお菓子を勧めてみる。
ちょっと躊躇ったあと、骨張った手は小さなお菓子を取った。包みを剥がし、控えめな色合いのかけらを丸ごと口に運ぶ。
数秒、何の音も無い時間があって。彼は、ぽつりと呟いた。
「……甘いな」
味覚の鈍いはずの男が本音で言ってくれたのか、僕の手前気を遣って言ってくれたのかの判断はつかなかったけど。「でしょう?」と返してにんまり笑ってやった。
……僕の体と精神は、既に日常の中に無いのかもしれない。いつかそれに気づいた曽根崎さんが、僕じゃない誰かを選ぶ日が来るかもしれない。
けれどまだ、僕はここにいる。彼よりは正気に近い場所にいる。だったらせめてその間だけでも、あの手この手で彼をここに繋ぎ止めることができたらと思うのだ。
そばにいて。手を取って。引き止めて。引き上げて。
――たとえいずれ、僕自身が深淵に落ちてしまうとしても。
お菓子を咀嚼する曽根崎さんの前で、また乱れそうな呼吸を押さえつける。目が合った彼にもう一度無理矢理笑ってやって、僕もお菓子に手を伸ばしたのだった。
第3章 人魚のミイラ 完





