18 動く死体
烏丸先生の言葉に、僕の背筋はゾッと冷えた。――三条がドアを開けた時には、もう男は死んでいた? いや、だけどそんなことが……。
「あるわけがない」
断言したのは椎名さんである。
「先生の言うことが正しいとなると、この男は死んだ後に動いてこの木箱を閉めたってことになる。おかしいよ。死体が動くはずがない」
「……」
烏丸先生の口がパカッと開いたまま、止まる。しかしいつものように説明が面倒になったのだろう、ポンと曽根崎さんの肩に手を置いた。
「……お前の言うことは至極もっともだが、あくまで烏丸先生は客観的事実を述べているだけだ」
仕方なく、曽根崎さんが説明を引き継ぐ。
「この写真が撮られたのは、三条君が玄関前に倒れた男の姿を見てから二十三分後。見たところ死斑は非常に初期の段階だが、少なくとも死の直後に出るものではない。だとすれば、この死体は誰かに移動させられたか、生きたまま移動して木箱を閉めたかの二択になる」
「後者の現実味が薄過ぎやしませんか?」
「ところがそうでもないんだわ、手下君」
ここでやっと、烏丸先生が説明に応じてくれた。
「初期の死斑は、体位が変わるとそれに応じて位置が変化する。でもこの写真を見るに、死斑が出ているのは顔の一部と腕の下のほうだ。するってぇと……動く時は、こういう感じだったってことになる」
烏丸先生は首をダランとさせた後横に向け、キョンシーみたいに腕を前に突き出した。
「これ見てどう思う? 僕ァ、第三者が遺体を動かしたってんなら、こんな不自然な形にならねーと思うけどね」
「一人でに動いたとしてもその形はおかしいと思うぜ、センセ」
「ま、椎名さんの意見が真っ当だとは思うよ。……曽根崎はどう?」
水を向けられ、曽根崎さんは顎に手をあてて考えた。けれどフリだけだったらしい。すぐに顔を上げ、烏丸先生に濃いクマを引いた目を向けた。
「烏丸先生。確認ですが、死体を調べることはしていませんよね?」
「ああ。今回の件に関してだけは、見ることすらできちゃいねー」
「やはりそう手配されていましたか。では、死体の所持品に巻き物があったかどうかは?」
「分かるよ。この写真見りゃ早いかな」
バインダーに挟まれた写真の一枚を、烏丸先生は指差す。確かに男の右手には、握りしめられてぐしゃりと皺の寄った巻き物があった。
あ、と気づく。慌てて鞄を下ろし、中から同じものを取り出した。
「曽根崎さん、これ、僕も持っているやつですよね? 解読できてない巻き物」
「よく気づいたな。しかし惜しい。厳密には君の持っているものが本物で、彼の持っていたものはレプリカだ」
「レプリカ?」
「コピーしてすり替えておいたんだよ」
どうして、そんなことをしていたのか。尋ねる暇も無く、曽根崎さんは続ける。
「人魚のミイラを見た者は、命を奪われてしまう。そこまでは既知のことだが、どうやらその命の奪われ方には違いがあるらしい。……椎名」
「はいはい」
曽根崎さんの呼びかけに、椎名さんはあるものを差し出す。それもまた、巻き物だった。
「景清君、人魚のミイラのあった場所に保管されてた絵巻を覚えてるかい?」
「あ、最後の絵がぐちゃぐちゃに塗り潰されてたやつ……」
「あれを修復したものさ」
「ってことは、見られるようになったんですか」
「ああ。そして、そこには身の毛もよだつ恐ろしい事実が描かれていた」
何故か絵巻の先が僕に向けられていたので、こわごわ手に取る。落とさないように気をつけながら、広げた。……本当だ、ちゃんと修復されている。
いっそ、見えないままにしておくべきだったのではと後悔するほどに。
木箱に群がる人たちは、石になっていた。手足をこわばらせ、目を見開いて。まるで最初からそう作られていたように、木箱の周りにごとりと転がっていた。しかし、その中で一人だけ違った描かれ方をしていた人がいる。
――両目から血を流した、男だけは。彼だけは石にならず、生身のままで木箱にしがみついていたのだ。
そして男の傍らには、見覚えのある巻き物が落ちていた。
「……同じものを、あの部屋で見ました」
勝手に震える喉を抑えることもできず、僕は言う。
「木箱にしがみついて目から血を流していた人の近くに、二つの石像がありました。あれは、この絵巻に描かれてある状況と瓜二つで……」
「そうだな。実際、こちらの写真でもそのように見受けられる」
「でも、木箱にしがみついていた人は生身でしたよ! どうしてそんな違いが……!」
尋ねかけて、ハッとする。視線が、ゆっくりと読めない字の書かれた巻き物へと移った。
「まさか……これのせいなんですか?」
「そうだ」曽根崎さんが頷いた。
「その巻き物を持っていれば、人魚のミイラを見ても石化しない。どうやらレプリカでも同様の効果はあるようだ」
「でも……なんで、本物のほうを僕に」
「緊急措置だ。私は本物しか持っておらず、かつ現場に行く君はミイラを見てしまう恐れがあった。検証が十分にされていない以上気休めにしかならないが、君の身を守れる可能性があるなら渡しておきたかったんだ」
「曽根崎さん……」
……そうか。「肌身離さず持っていてくれ」とは、そういう意味だったのか。なんだよ、僕はこんな所でも曽根崎さんに守られて――。
ん? いや、本当にそうか?
「でも絵巻持ってる人って、全員亡くなってますよね? 石化してないだけで」
「ああ。共通点は両目を抉り出し、蓋の上で絶命していること。死ぬっちゃ死んでる」
「じゃあむしろ、僕は巻き物の実験台だったと言えるのでは?」
「しかし石化は防げるわけで」
「死ぬなら一緒だろ! 僕に黙って、怪しげなシロモノの効果を検証するな!」
「うわっ、蹴るな! すいません!」
やっぱりとんでもねぇ奴である。息を荒くしてブチ切れる僕だったが、「まあまあ」と椎名さんが僕の両肩を叩いて笑顔でとりなしてきた。
「結果オーライというやつじゃないか、景清君。生きてりゃハッピーラッキーウッキッキーだろ?」
「それも一つの意見ではありますがもし今後同様の事例が起きた場合大変遺憾であるのでやはり今ここで僕自身の意見を伝えておくのが賢明かと思い」
「まだその距離感なの!?」
「いいぞ、景清君。ついでに目も潰しておけ」
「アンタはどれだけ嫌ってんだ! つーか僕が怒ってんのアンタですからね!?」
騒がしくなる室内である。そんな僕らを興味なさげに眺めていた烏丸先生だったけど、一つ思い出したようにポンと手を打った。
「そういや僕、曽根崎に渡しておくもんがあったんだわ」
「なんですか?」
「これ」
ポケットから取り出されたのは、透明な袋に入れられた黒色の板切れ。
「田中の御大曰く、木箱の近くに落ちていたンだってさ。相変わらずあの人、現場に来たがりなんだから」
「厄介ですね。最近夜になると手足が冷えるそうなんで、そこを狙ってみては?」
「別に狙うほど困ってもいねーな」
なんだか物騒な曽根崎さんと烏丸先生の会話をよそに、曽根崎さんの腕の隙間からこっそりと黒色の板を観察してみた。
大きさは、手のひらより少し大きいぐらいか。よく見れば何か文字が彫られている。目を細め、なんとか読み取ろうと試みた。
知らない文字だった。知らないはずの文字だった。
「……ッ!?」
突然、脳の左側に鋭い閃光が走った。思わず目を閉じ、ズキズキする頭を押さえて波が過ぎるのを待つ。
だけど、次に目を開けた時。
「――『死を超越せし罪業者、永劫なる生者の牢獄にて苛まれん』……?」
何故か僕は、書かれてある文字が理解できるようになっていた。





