16 潰れて溶けて
埋められた人々の視線は、曽根崎らから離れない。しかしそれを気にした風でも無く、二人は宙に浮かぶ黒い男に体を向けていた。
「……曽根崎様は、依存相手を昔の男に鞍替えしたのでしょうか」
男は、いかにも愉快そうに笑う。
「残酷なことをする。知れば、景清君もさぞかし悲しむでしょうに」
「下衆の勘ぐりを垂れ流すな。いいから要件を言え」
「要件、要件、要件。与えられるものを口を開けて待っているのでは、雛鳥も同じです。それでいて際限なく求めるとは、殊ヒトは強欲な生き物――。しかし、いいでしょう。私は此度、忠告に来たのです」
黒い男は、曽根崎の眼前に舞い降りた。人の親指の爪だけで作られた翼をしまうと、八本ある指の内一本を真っ黒な唇にあてる。
「貴方は、この事件はミイラを財団に引き渡して終わるものだと思い込んでいる。ですが何という的外れ。この事件は、唯の始まりに過ぎないのです」
「……なんだと?」
「ミイラはツクヨミ財団へと移され、それは適切に保管される。適切な温度、適切な湿度、適切な人材……。無論どこぞの寺にあるより、格段に環境は向上するに違いありません。ですが、だからこそ」
男が指を鳴らすのを合図に、埋まっていたヒトの頭が弾け飛んだ。大量の肉片と血が、曽根崎らの服に飛び散りこびりつく。
「この事件は終わらない。何せあの場にいた誰彼も、ミイラの本質を知らないのですから」
「ミイラの……本質を?」
「あの“罪人”は、全ての始まりになる。謂わば鍵にも似たモノなのです。おぞましく冒涜的な混血の民族へと繋がる、薄い境界を隔てた異界への」
「……それの、どこが忠告なんだ」
「つまり誰かに狙われてるってことじゃあないか?」
口を挟んだのは椎名である。
「アイツはさっき、あの場にいた誰もミイラの何たるかを知らないって言ったろ? なら、いない者ならその真価を知ってるヤツもいるんじゃないか。……まあ、今後ツクヨミ財団が狙われるってことにもなるんだけど」
「……貴様の推論が正しいとして、何故今だった? SNSで存在が拡散されたとはいえ、ミイラ自体はずっと九須寺にあったんだぞ」
「知らない」
「クソッ、使えん」
「それこそあの黒いのに聞いてくれよ。なんでも知ってるんだろ?」
「おやおや。椎名様は依然変わらず、基幹部のネジが二本ほど飛んでおられる」
心底軽蔑したように、男は首を百九十五度捻った。
「ですがそれも人間たればこそ。矮小な脳も誤差の内となれば、湧き上がるのは憐憫の情のみ。ここは私めの寛大において、一つ教えて差し上げるとしましょう」
「おお、ありがとう!」
嬉しそうに礼を言う椎名に、曽根崎は露骨に嫌な顔をした。男の首はいよいよ捩じれ、ぶちぶちと筋の切れる音がしている。
「――星辰の揃う日は、近い」
最後の筋が、ぶちりとちぎれた。
「罪人を流せしは、此れ知る者也。頑是無き者共らは、平伏し讃美に湧き立つだろう。名状し難き邪悪らが混ざり溶け、世界を呑みゆく終焉を」
男の首は、落ちなかった。逆さまに宙に浮いたまま、けたたましく笑っていた。
「……ああ、そうだ」
だが闇に溶ける前に、黒い男は眼球まで黒い目を出現させて曽根崎を睨めつける。
「曽根崎。一つ確認しておきたいことがあるのですが」
「何だ」
「貴方、以前より混濁が激しくなっていますね?」
「……」
「答えずとも構いません。……情緒連綿たる彼との時間とて、無限では無い。転瞬も蔑ろにされませぬよう」
「……余計なお世話だ。用が済んだのなら、とっととこの空間ごと消えるがいい」
「ええっ!? それは困るだろ、曽根崎! あの犯人たちがなんで襲いに来たのかとか聞かなきゃ……!」
「やめろ。下手にコイツから何かを得ようとすれば、対価を払わされるぞ」
「だが……!」
「忘れたのか、椎名」
鋭い曽根崎の言葉に、椎名は黙った。刹那、彼らの頭は巨大な漆黒の手に掴まれる。曽根崎は左手に、椎名は右手に。
「あ……」
「……ッ」
抵抗する時間はおろか、喋る暇すら与えられなかった。二人の頭部は、脆い果実のように容易く握り潰されたのである。
ドンドンドン、という耳障りな音にハッと目を覚ます。こもった空気の中、曽根崎は何度もまばたきをして薄暗い自身の世界を確かめた。
「曽根崎さん! 曽根崎さん、いるんですか!」
……この声は、景清か。戻ってきた現実に一瞬気持ちが弛みかけたが、急いで立て直す。
ここには死体が四つもあるのだ。彼に何の準備もなく、開けさせるわけにはいかない。
「待て、景清君。まだ開けるな。忠助か財団の者を呼んで……」
「阿蘇さんは、人魚のミイラの処理にかかりっきりです。峰柯さんも救急車で運ばれました。もうこのお寺にいるのは、曽根崎さん達だけです」
「そう、なのか?」
どうやら自分が黒い男に囚われている間に、事件はひと段落したらしい。……忠助が処理に追われているというのであれば、犠牲者が出たのか。
とにかく、まずはここから出なければならない。そう思い、身を起こそうとした時である。
「……曽根崎」
影が動き、自分の名を呼んだ。椎名だ。彼にしては珍しく、動揺した声色だった。
「なあ、こういうのおかしいって思っていいんだよな? 俺は、それで正しいよな?」
「なんだ。何があった」
「……溶けてる」
「は?」
こちらの疑問に応えるように、椎名が頭を振る。しかし長めの髪は、ぴったり張りついてなびかない。
「死体が、溶けてるんだ。そして俺とお前は、それにまみれている」
「何を……」
言っている意味が分からず、曽根崎はポケットからスマートフォンを取り出そうとした。だがぬるりとした感触に、咄嗟に手を振り払う。
何故、気づかなかったのか。自分の全身は、謎の粘液に覆われていたのである。
「椎名、これは……!」
「俺に分かるもんか! ああもう、スマホが壊れてないといいんだけど……!」
「それどころじゃないだろ! 死体が溶けているなんて、何故そんなことを――!」
言いかけて、気づく。薄闇の中、折り重なっているはずの四つの死体の量が明らかに薄かったのである。
――一体しか、無いのだ。これこそ椎名が、「死体が溶けている」と言った根拠だった。
「なんだ、これは……。残る三つの死体は?」
「黒い男の仕業か?」
「いや、アイツならこういったことはしない。やるなら痕跡が残らないようにするはずだ」
「じゃあなんで?」
「知るか」
「? 大丈夫ですか、曽根崎さん。開けますよー」
「待っ――!」
制止も間に合わず、物置小屋のドアが開けられる。懐中電灯の光に目が眩み、曽根崎は言葉を失った。
「えっ……」
光の中の景清は、たじろいだようだった。そして数秒の沈黙の後、大変不可解そうに彼は首を傾げる。
「……なんで、二人ともローションまみれなんですか? 何してたんです?」
「……」
「ローション使うようなこと?」
景清の問いに、粘液まみれの二人は視線を合わせて首を横に振る。
「「誤解です」」
初めて、曽根崎と椎名の息が合った瞬間だった。





