番外編2 結局一週間もたなかった話
鍵盤に向かい合い、音を響かせる。藤田さんの動きと呼応させ、だけど自分のパートが疎かにならないように。
――っづあああっ! またミスった!!
「ちょっと休憩にする?」
手を止めた藤田さんがこちらを向く。僕のミスで練習を中断するのは申し訳なかったけど、蓄積した疲労は正直だ。僕はぐったりと頭を垂れ、深いため息をついた。
「うう、すいません……全然上手くならなくて……」
「いやいや上等だよ。むしろ四日でここまで弾けるなんて流石景清だ。可愛い」
「可愛くないです……」
曽根崎さんから楽譜を渡されてから、今日で早四日目……の夜。未だ一度もノーミスで弾けていない僕は、恨みがましく楽譜を睨みつけた。
これじゃダメだなぁ。せっかく曽根崎さんのバイトを休んでまで、時間を取ってるのに。
「……」
……曽根崎さんといえば、ちゃんと食べているだろうか。阿蘇さんに頼るって言ってたけど、あの性格だし、そろそろ見放されてる頃なんじゃないかと思う。
「…………」
というか、こんなに会わないのは久しぶりだ。前はテスト期間中だと一週間ぐらい行かなかったりしたけど、最近は毎日のように顔を出してたから。
あとあのオッサン、絶対事務所の掃き掃除とかしてないんだよな。すぐ隅っこに埃が溜まるから小まめにしなくちゃいけないのに、最後に掃除してからもうかなり経ってる。そういやコピー用紙の補充時期ももうすぐのはずだし、お客さん用の茶葉も無くなってたはず……。
「………………」
「景清?」
藤田さんが覗き込んでくる。その端正な顔立ちの向こうに時計を見て、僕はそろそろと尋ねた。
「あの……藤田さん」
「ん?」
「……その、ボランティアって、いいことですよね?」
「……んんんー?」
――この時の藤田さんの不可解そうな目は、しばらく忘れられないと思う。
夜の中、自転車にまたがった僕は息を切らせてあるビルを見上げた。もう二十一時だというのに、まだ二階には白い明かりが灯っている。案の定というか、なんというか。
自転車を止め鍵をかけて、一段一段階段を登る。何も悪いことはしていないのに、妙に心臓がドキドキとしていた。
「どうも、こんばんは!」
そんな謎の後ろめたさを振り切り、勢いよくドアを開ける。ダマになった埃が、西部劇に出てくる草の塊みたいに転がった。
「……え?」
デスクに埋もれていた事務所の主人が顔を上げる。相変わらずの濃いクマを引いた目だが、なんとなくいつもより疲れているように見えた。
「な、なんで君がここに? 練習が終わったなら家に帰って……」
「今日! ご飯は食べましたか!?」
「は? ご飯?」
「食べましたか!?」
「……いや……あまり……」
「水は!?」
「飲んだ……と思う」
「これ殆ど飲んでねぇな! 待っててください!」
鞄を置いて手洗いとうがいをして、鍋に水を入れ火にかける。電子レンジを開け冷凍したご飯を放り込み、その間に掃除機を取り出してガーガーと床を往復した。
「嵐?」
嵐ではない。竹田景清である。
やがてお湯も沸いたので、ちょっとした野菜とベーコンもぶち込み適当な調味料で軽く煮た。雑炊かな? 多分雑炊だ、うん。
「お食べください」
器によそい、ドンと曽根崎さんの前に置く。彼はしばらく僕と雑炊を不思議そうに見比べていたが、やがて黙ってれんげを口に運び始めた。
「もしかして熱いか? これ」
「鍋から移す時に少し冷めたとは思いますが」
「あ、いただきます」
「どうぞ。ご挨拶できて偉いです」
お茶を入れてきてやる。そのあと彼の机へと向かい、丸めた紙や折れたペンなどをまとめてゴミ箱に突っ込んだ。捨てる努力ぐらいはしてほしいものである。
「……これは、時間外労働に該当するな」ぽつりと、曽根崎さんが言った。
「後で給与に反映させとくよ」
「や、別にいいですよ。単なるボランティアなんで」
「ボランティア?」
「はい。だからお金はいりません。そもそも勝手にやってることですし」
「……お、お金いらない? 君が?」
「まあ欲しいのは山々ですけど。一方的に押しかけて一方的に金払えってのもアレでしょう」
「いや、そんなことは……というか、それなら何故君はここに……」
「いいから食べちゃってください」
「ええええええ」
だいぶ困惑していた曽根崎さんだったが、僕がこれ以上答える気は無いと分かると諦めて食べ始めた。
さて、なおも机の上は無惨に散らかっている。ボランティアとは言ったものの、手を抜くつもりは無い。そうやってできるだけ重要そうなものは動かさないよう作業を続けていると、ある物に目が止まった。
「あれ……これ、DVDですか? 捜査資料?」
「ああ、うん。中伴さん指揮の第九だ。古和イオの自宅にあったものを押収してきてね」
「そういえば古和さん、中伴さんの教え子なんでしたっけ」
「そう。で、調べて分かったんだが、彼女は元々音楽学校の指揮科にいてな。中伴氏とはそこで知り合ったんだそうだ」
「指揮科ですか? 作曲じゃなくて?」
意外な情報だ。曽根崎さんは一つ頷くと、特別何の感情も表さずに続けた。
「中伴氏曰く、彼女は指揮者としてもかなりの才があったらしい。だが卒業まであと一年と迫った時、突然彼女は中伴氏に『先生がいるなら、自分は指揮者でいる必要が無い』と言い筆を……もとい指揮棒を折った」
「夢を諦めたってことですか?」
「そうなるな。ただ、中伴氏はそれを彼女の挫折とは捉えていなかったが。とにかくまあ……彼女は作曲家に転向し、無事大成功を収めた。そしてこのたび恩師である中伴氏に連絡を取り、指揮してもらうためにこの曲を書いたんだ」
「……」
「古和イオは、中伴氏とやり取りしたメールは全てタグをつけて残していた。中にはかなり古いもの、卒業時のものまであった。このことから察するに、彼に嫉妬や恨みの感情を抱いていたわけではないだろう。これを、たとえば柊ちゃんなどは彼に恋をしていたからだと推測していたが」
「恋、ですか」
「しかし、やはり私には分からん」曽根崎さんは、ずずと雑炊の汁を飲んだ。
「というか、さほど興味が無いと言うのが正しいのかな」
「そうでしょうね」
「そこでだ。景清君はどう思う?」
「何で僕に聞くんです?」
「情を寄せるのは君のほうが得手だろ」
「ええー」
「果たして、古和イオは中伴氏にどんな感情を持っていたのか。恋慕、嫉妬、羨望、はたまた私の知らない感情か。……どうだ、君なら理解できるんじゃないか」
無責任な問いかけに、文句をつけてやろうと机から顔を上げる。が、呑気に雑炊をフーフーしている曽根崎さんを見て気が削がれた。何だコイツ。本当に真面目に聞いてんのか。
……古和さんが中伴さんに抱いていた感情、かぁ。
「……認めていた、とかじゃないですかね」
「認めていた?」
「あ、なんか上から目線の言葉に聞こえたらちょっと違うんですけどね」僕は、ハラハラと手を振った。
「古和さんは、中伴さんを最高の指揮者だと思ってたんじゃないかなって思うんです」
「最高の? それなら普通、師と仰ぎ同じ道を行くか、超えようとするもんなんじゃないか?」
「んー……もしかしたらですけど、古和さんは中伴さんと違う道に行くことで、彼とは違う頂点になりたかったんじゃないでしょうか」
「ほう」
曽根崎さんは、食べる手を止めて聞いてくれている。それで僕も、すんなり自分の考えを話すことができたのだ。
「ほら、指揮者って二人が一つのステージに立つことってできないじゃないですか。でも指揮者と作曲家なら、いつか二人の場所が重なる日が来るかもしれませんよね? 自分が最高と認めた人と、並んで立つ。古和さんが望んでいたのは、そういう対等だったのかなって……あくまで、僕の想像ですけど」
「……」
「そんな感じですかね」
でも、最後のほうはなんだか気恥ずかしくなってしまった。片付けに戻るふりをしてチラッと曽根崎さんを見ると、彼はじっと顎に手をあてて考えていた。
「……なるほどなぁ」
そうして、ふぅと息を吐く。
「景清君、やっぱり今日の分も給料は払うよ」
「ええっ、なんでですか!?」
「有意義な知見を得たからだ。君の仮説は私には到底至れぬものだった」
「は、はぁ……」
「相談してみてよかったよ。ありがとう」
……感謝されたし、お金ももらった。今からでも断るべきなのか、得したと思うべきなのか。
分からないまま、まだ照れ臭さを引きずる僕は曽根崎さんの机の下へと引っ込む。そこで見つけた埃に、僕はくしゃみを一つしたのだった。





