番外編1 持ち帰られた藤田のその後
本当は、眠るのがあまり好きじゃない。オレにとっての夢とは、時として自分の中にある何かを引き摺り出し、目の前に突きつけてくるものだったからだ。
ドロドロとしたものを。グロテスクな虹色を。燃え盛る炎を。腐った肉の匂いを。
恍惚とした、人々の声を。
これでも上書きしようと頑張ってきたのである。中でもピアノはちょうど良かった。嫌な思い出と結びついていないわけじゃないが、愛着の湧いた美しい音色を奏でている間は色々と忘れることができたから。
……もしかしたら一番の理由は、口の悪い幼馴染に珍しく褒められたからかもしれないけど。
「へぇ、上手いじゃん」
小学生の頃、昼休みに音楽室でピアノを弾いていた時。いつのまにか覗きに来ていたアイツに、そう言われたのである。
「……え、ほんと?」
「おう、ほんとほんと」
「じゃ、じゃああの、ただ君が好きな歌とかある!? 僕、多分弾けると思うけど……!」
確か、当時のオレなりに勇気を出した発言だった気がする。しかしこの健気な申し出に、あろうことか奴はブンブンと首を横に振ったのだ。
「いらねぇ! それより缶蹴りしようぜ!」
……思えばこの頃から既に情緒とか無かったな。完全に仕上がってたわ、阿蘇忠助が。
しょっぱい思い出はさておき、そろそろ起きねばならない。なんかえらく眩しいし、めっちゃご飯のいい匂いするし。
渋々目を開ける。瞬間、目を焼く太陽光に変な声が出た。
「おー、起きたか」
二十七歳の阿蘇忠助が、何故か鏡でチラチラと朝日を反射させていた。
「よく寝てたな。オラ、ちゃんと目ぇ開けろ」
「開ける、開けるからそれやめて。めっちゃ眩しい」
「早速確認で悪ぃが、昨晩のこと覚えてる?」
「昨晩ー……?」
「うん、昨晩」
ぼりぼりと髪を掻き、首を傾げて考える。――痺れるような緊張感と、正気と狂気の狭間を駆け抜けた景清とのセッション。正直忘れろと言う方が無理な話だったけど、寝ぼけていたせいか口から出てきたのはいらん言葉だった。
「ああ、ばっちり覚えてるよ。熱い夜の末、とうとう阿蘇と一線を越え……」
「記憶に混濁、妄想の可能性あり。早急に兄さんに連絡し単独隔離の必要性」
「すいませんふざけましたごめんなさいスマホ下ろして」
「拘束開始」
「お願いせめて朝ご飯は食べさせて! すげぇいい匂いしてんの!」
阿蘇にしがみつくと同時に、昨日から何も食べてないオレの腹の虫が悲鳴をあげた。
「――で、なんともないと」
「はい、なんともないです。平気です。後遺症っぽい後遺症も無いです」
「そりゃ良かった」
あっさり言って阿蘇は味噌汁をすする。ワカメと豆腐のシンプルなやつだ。疲弊した胃に染みて、美味しい。
「さっき兄さんから聞いたけど、景清君の方も問題無さそうだとよ。とりあえず一安心だな」
「何、景清は曽根崎さんといるの?」
「兄さんと夜通しゲームしてたらしいぜ。ついさっき寝た所だとか何とか」
「元気すぎじゃね?」
「まあ景清君は若いしな。兄さんは不眠症だし」
「ふーん」
そういうもんかね。オレは綺麗に巻かれた甘めの卵焼きを口に放り込み、ゆっくりと咀嚼した。また余計なことを言いそうになった衝動もついでに飲み込み、無難な返事をする。
「仲良しねー、あの二人」
「な」
「まるでオレたちみたい」
「そりゃちょっと毛色が違うんじゃねぇか」
「違うかな」
「おう、ミケとハチワレぐらい」
「何、猫の話?」
「お前どの柄が好きよ」
「えー、考えたこともねぇな。つーか世間一般的に猫の柄の好みとかあるもんなの?」
「あるある。履歴書にも書く」
「御社に貢献できる要素じゃ無くね?」
「俺が採用担当なら通すぜ」
「でけぇな、お前の一存」
オレのツッコミに阿蘇が少し笑う。それに釣られて笑ってしまい、なんだか大学生の時を思い出して複雑な気持ちになった。
「……お疲れさん、藤田」
「んー?」
熱い湯呑みを手に取り、阿蘇がぼそりと言う。
「ピアノだよ。お前だって暇なわけじゃねぇのに、だいぶ時間取って景清君をフォローしてくれてたんだろ?」
「あー……そんな大したことじゃないよ。景清、元々かなり弾けてたし」
「そんでもよくやったよ。あの子、プレッシャーかかるの苦手だろ」
「……そうだな」
逆にお前が強過ぎんだよと思ったが、声には出さなかった。
「でもさあ、正直このままでいいのかなって考える時があるよ」
「ん、景清のこと?」
「そうそう。……兄さんといたせいでかなり事件に巻き込まれてきたけど、景清君自身すげぇ優しい子じゃねぇか。俺からすると自業自得と切って捨てるような犯人にすら、同情して悩んだりさ。だから時々……」
阿蘇が目を伏せる。彼の感情が読めなくなった。
「――全部忘れさせて、普通の生活に戻してやれたらって思うことがある」
それから、阿蘇はぐいと湯呑みを煽った。――『全て忘れさせて元の生活に』。そうだな。阿蘇だったら、そう思うよな。
……でもなぁ。
オレは少し迷って、だけど今度は言葉にしようと顔を上げた。
「そっちのほうが、景清には酷じゃないかな」
できるだけ軽い口調で言う。阿蘇は、黙ってオレの話を聞いていた。
「お前だってアイツの生い立ちは知ってんじゃん。じゃあ普通の生活に戻るってことは、アイツからお前や曽根崎さんを取り上げるってのとイコールだろ? ……アイツは嫌がると思うよ。特に曽根崎さん。あの人の為なら命張れるってぐらいべったりなんだから」
「べったり……なぁ。どう考えても適切な相手じゃねぇけど」
「いいんじゃね? 曽根崎さん、ギリ闇の組織じゃないし」
「ギリな。つーかお前的にはいいの?」
「何が」
「お前の甥っ子がうちのクソ兄に寄りかかってんの」
「いいわけないけど、オレ何か言える立場じゃないしね。あー、オレも昔ちゃんと景清を守っときゃ、今頃ドヤ顔保護者面できたのかなぁ」
「へぇ、そんなこと思うのか」阿蘇は目を見開いた。
「や、十分頑張ってたろ。いつも気にかけてたし、時々遊んでやってたし。院だってわざわざ景清君がいる大学に移ったくせにさ」
「げふっ!?」
「心配だったからだろ? 景清君のことが」
「そ、そそそそれは違いますよ!? おおおオレはオレの学ぶべき場所に綿密な計画の上行動したまでで!」
「へいへい、そうっすね」
「ぐぬぬっ!」
コイツ、相変わらず無駄に勘が鋭いな! オレは変な所に入った米粒を咳き込んで追い出しつつ、喉にお茶を流し込んだ。
「なぁ藤田、お前皿洗ったら帰れよ」
そして驚きの宣告である。できるだけキュートな顔で阿蘇を見つめてはみたものの、奴の表情が変わらないと知るや否やオレは床に転がり手足をジタバタさせた。
「嫌だ嫌だ嫌だ! オレは今日一日阿蘇とイチャつくって決めたんだ!」
「研究室行けよ」
「どうせオレの研究は誰にも求められてないもん……!」
「お前それ三日に一回は言うけど、次の日には前人未踏の地を踏むんだって言ってんじゃん。頑張れよ」
「ねぇイチャつこう! すんげぇテクニック見せてやるから!」
「恐れ入りますが当社ではそういったサービスは承っておらず……」
「指とかすげぇんだぜ! 超高速! ほら分身して見えんの!」
「生憎ですが……」
「クソッ!」
聞く耳持たずである。仕方ないので、素直に皿洗いに従事することにした。
「あ、そうだ」
けれどその途中、野球の録画を見て寛いでいた阿蘇が思い出したように言ったのである。
「久しぶりにピアノ聴いたけどさ、やっぱすごいな、お前。ほんと上手いよ」
「……え?」
「それだけ」
……体を捻り、自分なりに詰められるだけの感情を詰めた渾身の視線を阿蘇に返してやる。だけど肝心の奴は素知らぬ顔で、またテレビに夢中になっていたのだった。





