23 少し温めた味噌汁と
「いや、結構です」
が、その声が形になる前に僕は曽根崎さんの顎を払いのけた。無精髭が手のひらに刺さる。痛い。
「不要ですよ、呪文は。大体アンタの体にも負担でしょう」
「これぐらいどうってことないよ」
「んなわけないでしょ」
彼に聞こえるよう、大きなため息をつく。
曽根崎さんは数年前、黒い男と契約し二つの呪文を手に入れた。それが『記憶を曇らせる呪文』と『相手の体の自由を奪う呪文』である。その代償は決して小さなものではなく、呪文を使うごとに精神を蝕まれ続けた結果、彼には感覚の鈍化、感情表現不全や不眠など様々な障害が生じていた。
さりとて、呪文を使わなければいいといった単純な話でもないのだ。何故ならたびたび黒い男が仕掛けてくる『玩具の試練』と称す怪異事件は、呪文を使わざるを得ないほど過酷なものだったから。
呪文を使えば使うほど、曽根崎さんは狂気に近づいていく。この程度のことで、僕が彼の正気を削り取るわけにはいかなかった。
「とにかく、これは僕の記憶なんです」曽根崎さんの目を見て、言う。
「僕自身で何とかします」
「だが、君が苦しむなら……」
「ダメったらダメです。いい加減にしないと怒りますよ」
「……」
曽根崎さんは、目をジトっとさせて不服げに唇を尖らせていた。子供かよ。
「……僕も覚えていたいんです」
だからダメ押しで、僕も素直な気持ちを吐露したのである。
「夢で見たあの人のことを。もう、僕らを守ってくれたメロディーは消えてしまって思い出せませんが。せめて、あの場所にいた人のことだけは忘れたくないと思うんです。僕が忘れたら、全部無かったことになっちゃうじゃないですか」
このとき僕の心に蘇ったのは、かつて出会った冷たい目をした青年の姿だった。不思議な空間で出会った、目の前の人と同じ名を持つアイツのこと。
「なので、いいです。苦しくても、僕は覚えたままでいたいんです」
「……む」
「それより、気になることがあるんですが」
まだ眉間に皺を寄せたままの曽根崎さんを無視し、強引に話題を変えてしまう。
「結局夢で見たあの人は誰だったんでしょうか。元ヴィオラ弾きだと黒い男は言っていましたが」
「……順当に考えるなら、前回の被害者だろうな。一方的に選ばれ、導かれたという」
「そこで対抗曲が作られたんですよね。でも僕、黒い男って、ただ自分の享楽の為に人を弄んでいるだけだと思ってました。特定の人を狙って、連れて行ったりすることもあるんですか?」
「その辺りはよく分からん。が、どうも奴の上には何か別の存在がいるようだ。扉の向こうにいたのは、そういう上位のモノなのかもしれん」
「じゃあ、その上位存在の命令で動いてたってことですか? 今回も?」
「いや、前回はともかく今回は違うと思う。無論どこかで奴が関わっているのは間違いないがな。ほら、上司の命令というものは得てして面倒でつまらないもんだろ? 奴の性格を鑑みても、もし命令で動いてたんだとしたら、今回のように回りくどい真似はせずとっとと終わらせていたと思う」
「んー……つまり、前回の黒い男は上司の命令で扉を開けた。でも今回は、曽根崎さんに課した玩具の試練だったと?」
「……あるいは、後処理をしただけかもな」
「後処理?」
曽根崎さんが頷く。喉が渇いてきて、僕はすっかり冷めたお茶を一口飲んだ。
「後処理。上位存在へと続く扉の“鍵”が残されているのは、実は奴にとっても都合が悪かった。故に鍵である『The Deep Dark』の楽譜や音源を回収し、この世から痕跡すら消したんだ」
「ん? でもアンタ『The Deep Dark』は一度演奏されたら効力を失うとか言ってませんでした?」
「失われたろうが。残らず奴に回収されて」
「詭弁では?」
「理屈だ」
最後のは負け惜しみに聞こえないではなかった。いや、僕もちょっと曽根崎さんの思考に追いついていけてないな。
間が保てなくて、もう一口お茶を飲む。すると、曽根崎さんがカラになったお椀を指で摘んで恨めしげな目を向けてきた。
「……何スか」
「味噌汁が無くなった」
「まだ鍋ん中にありますよ。自分で入れてきてください」
「三百円」
「すーぐお金で解決しようとする」
「五百円」
「仕方ないなぁ、お椀貸してください」
「金で解決する性格してるほうがいけないよな。はいお椀」
「僕のは性格じゃなくて環境のせいです。あー、一億円ぐらい当たらないかなぁ。そしたらこんなバイト、すぐやめてやるのに」
「宝くじ買う金も惜しむ癖によく言う。教えてやるが、あれ買わないと当たらないんだぞ」
「知ってます!」
つくづくムカつくオッサンである。強火でケツ炙ったろか。
だけど調理器具であるコンロをあのオッサン如きには使えず、僕は大人しく味噌汁をあっため直すのである。五百円五百円。
「……あ、そうだ」
と、ここで曽根崎さんがポンと手を叩いた。
「君、今日はうちへ泊まりに来いよ。一応怪異に気絶させられてるんだし、経緯観察が必要だ」
「げっ、嘘だろ!? 藤田さんは?」
「アレも目が覚めたら引き取るつもりだったが、二度寝しやがったからな。運ぶのも面倒だし、忠助に丸投げした」
「うわー、寝てたら良かったな。阿蘇さんちの朝食羨ましい……」
「おや、君から私の方に来たんじゃなかったっけな。私の記憶違いか?」
「今から阿蘇さんとチェンジできません?」
「……ところで先日発売されたばかりのRPG、『レジェンド・オブ・ファイア2〜五つの秘宝と封じられし姫君』がたまたま未開封の状態で家にあるんだが」
「え、マジですかやった。この味噌汁飲んだらすぐ曽根崎さんち行きましょうね」
「うん、大体君の扱い方がわかってきたな」
「うるせぇ」
なんとでも言うがいい。こっちは前々から特設公式サイトとか宣伝動画とか見てワクワクしてたんだ。買うお金無いけどさ。
「秒で飲んでくださいよ、秒で」
「はいはい」
そうして曽根崎さんの元へ味噌汁を持っていく。なかなか口には出せなかった労いの言葉も、ついでに添えてやりながら。
第2章・完





