22 忘れ物
「曽根崎さん、曽根崎さん」
「はいはい、はいはい」
「こちら、集めておいた黒い紙です」
「はいよ、ご苦労さん」
「で、なんですか、その紙は。アンタ心当たりあるんですか?」
「あるなぁ。あるからこうしてあの場を離れた」
「離れたって……んぶっ!?」
いきなり立ち止まった曽根崎さんの背中に、顔面を強打する。少し低くなった気がする鼻を押さえて一、二歩下がり、一言文句を言ってやろうと口を開けた。
が、目の前の光景に言葉は失われてしまう。
「お前は……!」
――真っ黒なスーツに真っ黒な中折れ帽。頭のてっぺんから爪先まで炭をかぶったようなシルエットは、街頭の下にあってなお闇の中にある。
曽根崎さんと恐ろしい契約を結び、彼の命と精神を玩具のごとく弄ぶ男。そいつが、僕らの前にぼうっと立っていた。
「なっ……何しに来た! 曽根崎さんとの契約の話はケリがついただろ!」
曽根崎さんを押しのけ、前に立つ。だが黒い男は、口元に手の甲を当て、腹の立つクスクス笑いをこぼした。
「噛みつきますねぇ。飼われた犬というわけでも無かろうに」
「何の用だ!」
「ご安心を。貴方の大事な拠り所に手を出しに来たわけではありませんので」
怒りで頭が沸騰しそうな僕の肩を、曽根崎さんが掴む。そのまま柔らかな仕草で傍に寄せ、彼は男へと近づいた。
「忘れ物だぞ」
「おや、これは失敬」
男に手渡されたのは、例の黒色の紙。男はそれを受け取ると、パッと空中で払った。するとさっきまで黒で塗りつぶされていた紙が、一瞬で音符の並ぶ譜面へと変わったのである。
「え……!?」
「……懐かしい。彼がこれを演奏していたあの夜を、今でも昨日のことのように思い出しますよ。といっても当時の彼はしがないヴィオラ弾き。腕も四本と持っていませんでしたがね」
「か、彼? それは、誰のこと……」
「しかしいくら一方的に選ばれ導かれたとはいえ、未だこのメロディーにしがみつくとは未練妄執甚しきかな。いずれにせよ、人間らしいと言えばその通りでしょう。
ですが決して無駄ではなかった。何故なら、こうして曽根崎の命を救ったのですから」
突如強い風が吹く。黒い男の手にしていた楽譜達はその風に巻き上げられ、上空の闇へと消えていった。闇の奥から聴こえるのは、いつかどこかで聴いたはずのメロディー。荘厳で、荒々しくて、不安と焦燥に胸がかき乱されるのについ食い入るように聴いてしまう。何より、今まで聴いたどの曲とも違っていて……。
「おい、早くあれを閉じろ」
と、僕の両耳を大きな手が塞いだ。曽根崎さんである。
「用は終わっただろう。とっとと穴を閉じて去れ」
「相も変わらず惚れ惚れするような盲愛ぶりでございますねぇ。ええ、ええ、私にこれ以上の用はありません。せいぜい蒙昧無知なる神の無聊を慰む為、彼女の仕事ぶりに期待するとしましょうか」
僕は確かに耳を塞がれていた。そのはずなのに、何故か二人の言っていることは鮮明に聞こえた。
「ま、待て!」
だけど、僕は曽根崎さんの手を振り払って黒い男に叫んだのである。
「お前……古和イオさんが連れて行かれた場所に、バイオリン弾きのおじいさんはいるか!?」
「……」
夜に溶けようとしていた男は、この問いかけに振り返った。帽子を目深にかぶっているせいで表情は判然としないが、真っ黒な唇は愉快そうに歪んでいるように見える。
「いいえ、いませんよ」
だが発せられた声は、何の抑揚も無いものだった。
「かつてヴィオラ弾きの人間だった、“何か”ならおりますがね」
息を呑む。――そうだ、僕が夢で見た弦楽器はバイオリンじゃなくてヴィオラだ。だとしたら、あの夢は本当に……!
ぐらりと視界が捻じ曲がる。男にはまだ聞きたいことがあった。だけど激しくなる動悸が喉を締め付けて、息すらできなくなって……!
「景清君!」
曽根崎さんの手が僕を支える。人一人通らない暗い道の隅でようやく僕の息が整った時、もう黒い男の姿はどこにも無かった。
で、すんなり家に帰れる気分になれるはずもなく。僕と曽根崎さんは、事務所のソファーで向かい合っていた。
「ヴィオラ弾きの老人の夢を見た?」
味噌汁を一気飲みした曽根崎さんは、訝しげに首を傾げる。
「あれ? 私が中伴さんから聞いたのはピアノだったような。あれ?」
「引っかかる所ソコですか。勘違いとかじゃないです?」
「いやー、どうだっけ。気になり始めたら止まらない。聞いてみよう」
「もう日付け変わってますよ。フットワークの軽さも時と場合によっては迷惑だな……」
止める間も無く、奴はスマートフォンを取り出した。
「ああ中伴様、夜更けに失礼します、曽根崎です。例の黒い紙の件ですが、無事処理が完了しましてね。一応お伝えしておこうかと思いまして」
「あ、報告というテイですか。ほんと口だけは上手い」
「ところで一つ気になったのですが、例の対抗曲に使われていた楽器を確認したくて。何でしたっけね、アレ。……ああ、はい。そうですか、ヴィオラでしたか」
「……!」
当たっていた。やはり、ただの夢じゃなかったのだ。
「……ええ、分かりました。では、また」
電話が切られ、曽根崎さんがこちらに向き直る。僕はドキドキとする胸を押さえながら、「だから言ったじゃないですか」と強気に吐き捨てた。
「でも珍しいですね。曽根崎さんが覚え間違いをしてるなんて」
「まあそんな日もあるよ」
「でも中伴さん、最初から一人が演奏してるって言ってましたしね。その点、連弾ができるピアノとこんがらがっちゃったんでしょうか」
「この話題はやめよう」
「もしかしてちょっと恥ずかしいんです?」
変な所でプライドの高い人である。武士の情けで僕は口を閉じてやり、両手に握ったお茶のカップに目を落とした。
軽口こそ叩いてはいたけど、心はずっとざわざわとしていた。夢のこと、曽根崎さんはどう思っているんだろう。
「リンクしたんだろうな」
けれど彼の答えは、明快だった。
「以前も言ったように、君は共感能力に優れている。故に、今回古和イオにより気絶させられた時も、君が情を抱きやすい者に引き寄せられてしまったんだろう」
「情を、ですか?」
「君はその老人に同情してるんだろう?」
「違う……と言えば嘘になりますが」
「な? だが、既に扉は閉ざされた。だからもう二度と、君がヴィオラ弾きの老人の夢を見ることは無いだろう」
「……」
でも、本当にそれでいいのだろうかと思う。
あの人は、あのままあそこにいて。僕は夢を見ただけで、これ以上できることは何も無くて。
だけどもし、僕が夢を見た理由があの人に呼ばれたからだったとしたら? 真っ暗闇から助けてほしくて、今もヴィオラを弾き続けているのだとしたら?
僕は、何の期待にも応えられずに終わってしまったことになるんじゃないか。
「……また考え込んでるな」
ひやりとしたものが頬に触れる。見ると、身を乗り出した曽根崎さんが僕の顔を持ち上げ覗き込んでいた。
「もう何も考えなくていい。事件は終わったんだ。たとえどれほど君がピアノを弾こうと二度と扉は開かれないし、あの夢を見ることもできない」
「……でも」
「それでもなお、君が脳にこびりついた影に苦しむというのなら」
もじゃもじゃ頭が近づく。彼の近さと匂いに息が止まる。曽根崎さんの囁きが、耳元に落ちた。
「……私が、全て忘れさせてやってもいい」
彼の唇は、身の毛もよだつ音を紡ごうとしていた。





