21 コンサートの後
気づくと、僕は闇の中にいた。自分の手すらも見ることができない、妙に息苦しく生ぬるい空間。耳を澄ますと、遠くで誰かが悲鳴が上げているのが聞こえた。
「……」
なんとなく不気味で、皮膚の下を虫が這うような嫌な感じがした。
だから代わりに、聞き覚えのあるメロディーの方へと顔を向けたのである。僕の足は、無意識にそちらへ動いていた。
不思議な親近感を抱かせる曲だった。拒絶と、渇望と、どうしようもない寂しさが内包されたような。それはずっと僕の中にあって、時々自分を苦しくさせるものでもあった。
音源が近づく。怖くはなかった。この先にいるのは、僕と似た人かもしれないと思ったから。
……あれ? でもこの音、ピアノじゃないな。何だろう、弦楽器みたいな……?
突然、僕の眼前に人が現れた。人――によく似た、存在が。
彼の腕は、八本あった。バイオリンに似た腕が四本、弓に似た腕が四本。腕は激しく蠢きあの旋律を奏でており、それらを真っ二つに割れた老人の頭が見下ろしていた。今にもこぼれそうなぐらい飛び出た眼球はぎょろぎょろと動いて、左右で全く違う動きをしている。
でも、やっぱり怖くなかった。むしろこの人をここで一人にしておくのが、無性に悲しくなって。
「あなたは」
――誰なのだ、と。
けれどそう尋ねる前に、僕の体は強い力で上方に引っ張られたのである。
「景清!」
眩しい光にまばたきをする。その光に慣れた頃、僕の視界に絶世の美女が飛び込んできた。
「柊ちゃん!?」
「よし、目が覚めたわね! 痛いとこない? 特に頭!」
「だ、大丈夫ですが……」
「そう! なら良し! シンジー! 景清の目が覚めたわよー!」
とびっきりのハスキーボイスが、曽根崎さんを呼ぶ。誰かと話していた曽根崎さんだったが、柊ちゃんの声に気づくなり引き止めようとする相手を無視してこちらに歩いてきた。
「起きたか、景清君。まずは何よりだ」
「曽根崎さん……。その、大丈夫でしたか?」
「あまり大丈夫じゃないが、君ほどではないよ」
「はっきり言いますね」
「気絶する前の記憶はあるか?」
質問されて、思い返してみる。えーと、確か僕は藤田さんとピアノを弾いていて、で、曽根崎さんの指示で防音装置を取っ払って会場でピアノを弾かなきゃいけなくなって……。
「……え、僕楽団に気絶させられてたんですか?」
「ああ。おはよう」
「あーっ! そりゃ姿見せて一緒に演奏してたら演奏側になるもんなー! 気絶させられるよなー! っていうか僕らが気絶させられた後、曽根崎さんは大丈夫だったんですか!? あ、藤田さんは!? っていうかあれから何がどうなって……! なんで柊ちゃんまでここに!?」
「多くの疑問を抱けるのは脳が健全な証拠だな」
「ほんとね。良かったわー」
「和んでないで答えてください!」
ぎゃんぎゃんと喚くものの、答えをもらえるのはまだ先のようだ。「兄さん」と今度は阿蘇さんが割って入ってきたのである。
「楽団員の搬送は終わったよ。取り急ぎ全員命に別状は無いみてぇだけど、三日ぐらい検査入院って名目で病院で養生してもらえるよう手配した」
「ご苦労。藤田君は?」
「一度は起きたけど、まだ眠いっつってまた寝た。起きねぇようなら俺んち連れて帰るわ」
「そうしてくれ。一応目を離さないようにな」
「おう」
ここで今更ながら、僕がいるのは会場のロビーだと知る。見ると、少し離れたソファーでぐっすりと眠る藤田さんの姿があった。
直接お礼を言いたかったけど、仕方ない。後でスマホにメッセージを送っておくとしよう。
「ねぇねぇ、なんでボクがここにいると思う!? それはね、シンジに呼ばれて来てあげたからよ! そしたら景清とナオカズが気絶したからね、タダスケと一緒に運んだの!」
「あ、ありがとうございます。すいません、お手を煩わせてしまって」
「んふふ、全然平気よぉ! こう見えてボク、すっごく強いんだから!」
細い腕で力こぶを作る真似をして、とても魅力的に笑う柊ちゃんである。そういやこの人、実家が剣道道場だったっけ。
周りを見回すと、もう一通りの処理は終わったのか財団職員と思しき人達が帰る準備をしている所だった。……なんか、マジで寝てる間に全部終わってしまったらしい。
「曽根崎さん……」
「おや、中伴様。もう帰られたのかと」
不安そうな男性の声に、曽根崎さんが鷹揚に答える。大きな鞄を持ってソワソワとするのは、指揮者であり今回の事件の依頼人である中伴さんだ。後から聞いたところによると、彼は曽根崎さんと入れ替わってからはずっと完全防音のイヤホンをつけて隠れていたらしい。
「いえ、まだまともにお礼も言ってませんでしたから……。あ、ありがとうございました。し、しかし、まさか本当に事件を解決してくれるなんて……」
「それが私の仕事ですからね。もうご安心ください。これであなたの楽団は二度と薄気味悪い噂に惑わされることなく、古和イオの曲を披露できるでしょう」
「その話なんですが……妙なことがありまして」
「妙なこと?」
訝しげに目を細める曽根崎さんに、中伴さんは恐る恐る小型のプレーヤーを差し出した。曽根崎さんの見つめる中、彼の節くれだった指が再生ボタンに触れ、数秒美しい音色が流れる。そして、止まった。
「これは、先ほどのオーケストラの録音です。今流れたところまでが私の指揮分。なのでこれ以降が……」
「私の指揮した……つまり『The Deep Dark』にあたる部分ですね」
「はい」中伴さんが頷く。
「ですが、これが妙なのです」
「ええ、拝聴します。どうぞ曲を流してください」
「い、いえ、もう流しているんですよ」
「……流しているとは?」
「わ、私は再生を止めていません。だから本来なら『The Deep Dark』が聴こえているはずなのです。な、なのに聴こえず、そればかりか……」
「ふむ、ならばもう少し音量を上げてみましょうか」
「あ、ちょっと!」
しかし中伴さんの制止は間に合わず、曽根崎さんは遠慮なく音量を最大にした。そこから聞こえてきたのは――。
『オオオオオ、オオオオオオオオオオオオ』
『……が残されていないわけだ。それも、仕切り直しさえ許されることなく……』
『オオオオオオオオオオ』
『どうだか。私も彼も同じ人間さ……』
『オオオオオオオオオオオオオオオ』
――風の音にも似た、咆哮が。淡々と吐き出される曽根崎さんの言葉に応答し、轟いていたのである。
「……ッ!?」
びっくりしすぎて僕と曽根崎さんは硬直し、中伴さんは泣きそうに唇を歪めている。でも柊ちゃんだけは、違った。
「ヤッダ、何よコレ怖いわ! 何言ってるか全然分かんないし、シンジアンタよくこれで会話できてたわね!」
「や……私が聞いた時は、こんな声ではなかった。……中伴様、失礼しました。もしや、『The Deep Dark』の他の音源も同様に?」
「そ、そうです! おかしくなってるんです! 全て無音か、あるいはこのように気持ちの悪い音が入っているばかりで!」
「……そうですか。ならば、楽譜は?」
「あ! それなら私の鞄の中に……!」
中伴さんが、持っていた茶色の鞄をひっくり返す。どさどさと散らばった紙の殆どには、連なる音符と書き込みがあって……。
「なんだ、これは」
中伴さんが顔を引き攣らせた。彼は、楽譜と同じ大きさの紙を手に震えていた。
――まるで闇をそのまま移したような、真っ黒な紙を。
「こ、こ、こんなものは知らない……! なんだこれは!」
「……中伴様」
「し、知らない! こんなもの持ってなかった! わ、私は確かにあの楽譜を……!」
すかさず曽根崎さんがその紙を彼の手から奪い取り、僕に目線を送った。彼の無言の指示通り、僕は残された紙からも他の黒い紙を抜き取る。
その間に、曽根崎さんは中伴さんの肩を抱え散らばる紙から目を逸らさせた。
「どうか落ち着いてください、中伴様。ほら、もう音楽は聴こえないでしょう? あなたと楽団に迫っていた危機は去ったのです。今日は病院にて、ゆっくりお休みくださいませ」
「だが、紙が……!」
「これは、私の方で処理しておきます」
曽根崎さんが笑っている。でも、あれは彼の作りたい感情じゃない。本当は……怒ってる?
「ええ、何の遺恨も無いようきっちりと片付けます。私の二つ名通り、跡形も無くね」
「曽根崎さん……」
「では、いい夢を」
さらりと気障なセリフを言ってのけ、曽根崎さんは紙を手に歩き出す。だから僕も中伴さんに頭を下げ、慌てて曽根崎さんの後を追ったのだった。





