20 一礼
「景清君! 藤田君!」
何が起こったかはすぐに察しがついた。曽根崎の呼びかけも虚しく、イヤホンからは何の返答も無い。
「……ここにいる以上、演奏に加わる者は私の洗脳の範疇だ」
誰とも知れぬ声が、曽根崎に告げる。
「連れて行けぬのは残念だが、もとより数には無い者。捨て置いた所で何の支障無い」
「くっ……!」
「そして、貴様も」
「がっ……あ!?」
曽根崎の表情が苦悶に歪んだ。頭をガリガリと掻き毟り、その場にうずくまる。
「ぐっ……! あっ、がっ、あぁッ……!?」
「さあ……狂気などでは生温い」
「お前の脳の神経という神経を掻き回し、」
「引きちぎり、」
「ドロドロに溶かしてやるとしよう」
「――ッ!」
しばらくのたうち回っていた曽根崎だったが、やがて痙攣するだけで動かなくなった。障害の消えた楽団は、心置きなく指揮者不在の演奏を続ける。
あれほど美しく流れていた曲は、今やおどろおどろしい音の泥濘へと変わっていた。ステージのバックにあったはずの壁は消え、寸分先も見通せない闇が大きく口を開けている。その奥からは、『The Deep Dark』に呼応するようにこの世のものとは思えないおぞましい旋律が漏れ出していた。
あとは、全ての観客をあちら側へと導き、その魂と肉体を楽器と変え紡がれた音色を神へ献上するだけでいい。古和イオの精神は、更なる高みへと至る己を空想し昂っていた。
「……?」
だが、最後の一音を鳴らし終わった後。
奇妙な違和感に、古和イオは辺りに目を巡らせた。
――無い。
本来であれば、人々の歓喜の声が聞こえてくるはずだった。あるいは、絶望の悲鳴が。けれどそのどれもが存在せず、会場にはガランとした空虚が満ちているだけだった。
「はっ……ようやく気づいたか」
笑い声を含んだ声に、古和イオは視線を動かす。よろよろと立ち上がった曽根崎は、右手を大きく挙げて指を鳴らした。
それを合図に、ステージに当てられていた照明が弱まる。そこでやっと、古和イオは自身の置かれた状況を知ったのである。
客席は、もぬけの殻だった。
あれほどひしめきあっていたはずの人間はどこにも無く、ただ舞台に楽団と曽根崎が取り残されているのみ。二階席にいるはずのピアノ奏者でさえ、姿を消していた。
「なんで」
「どうして」
「私の楽団は」
「楽器共は」
「どこに」
「……下手な演技と嘘に騙されてくれたな。種明かしすら必要の無いトリックだよ。最初から私には全て分かっていた」
わんわんと重なる複数の声の中、曽根崎はボサボサの髪の隙間から真っ黒な瞳を覗かせる。口元には、引き攣った笑みが浮かんでいた。
「対抗曲は……『The Deep Dark』の狂気を、食い止められる。だが、扉そのものを封じることはできない。
また、完璧に演奏されなければ『The Deep Dark』による扉は開かれないこと。そしてその扉はたった一度しか喚べないということも、私は知っていた」
「……なんだと?」
「だいぶ油断したな。律儀に練習を重ね、しかもその全てにおいてわざとらしいミスをするなど。加えて、以前のコンサートでしていたようなベールすらも取っ払うとはな。これだけ推理の材料を用意してくれてたんじゃ、本公演が最後の演奏になると気づかない方がおかしい」
「……ッ!」
「それでも、半分は賭けだったが。君の反応を見るに、考えは正しかったようだ」
「……お前っ……!」
「ならば、それら推測を元に私は何をしなければならなかったか? ……簡単な話だ。君の意識を私に引きつけ、観客がいるものと思い込ませ最後まで演奏するよう乗せてやればいい。そうすれば、君は誰もいないホールで『The Deep Dark』による扉を開くだろう。するとただの一人も犠牲者を出さず、曲の効力だけを失わせることができるというわけだ」
「お前……!」
「お前ぇっ……!」
「約束が違う!」
「反故にする気か!」
「約束を反故に? はて、約束とは“古和イオの楽曲を演奏する”、“それに伴う障害を未然に防ぐ”の二点だったはずだが」
顎に手を当て、白々しく曽根崎は言う。
「であれば何も問題は無いよ。客には事前に演奏会日程の変更を告げている。二ヶ月後には、改めて大規模な古和イオ追悼コンサートが開かれる予定だ」
「なっ……!」
「馬鹿正直に観客を残しておくような真似など、誰がするか。会場に入る人間を全て事前に身内の者にすり替え、かつ対抗曲を聴けるようイヤホンを渡していた。そしてその観客らも、君が私の長ったらしい演説に気を取られている最中に避難済みだ」
「……」
「そして今、私は古和イオという障害を潰すことができたというわけだよ。万々歳だ、これでもう不気味な音楽による被害は出ないし、扉も開かれることは無い。帰ったら赤飯でも炊くとするよ」
楽団員は、今にも曽根崎に飛びかかりそうな顔をしていた。だが、その口元は少しずつ緩んでいき……。
「くっは……ははははは!」
一斉に、楽団は笑い出した。
「いい!」
「構わない!」
「どうせ自力で神への扉すら開けない烏合の衆だ!」
「神への手土産にすら畏れ多い!」
「……そうかい。じゃあその笑いはどういうつもりだ?」
「お前を連れて行ってやる」
曽根崎に、幾本もの人差し指が突きつけられる。
「喜べ! 人間共が目を背け触れようとすらしない深淵にたかがお前如きが招かれるのだ! その姦しい口も、私なら素晴らしい音色に変えて……!」
「あー、それは無理じゃないかな」
曽根崎は、トントンと耳を叩いた。そこに嵌っていたのは、先ほどまで対抗曲であるピアノの音を経由していたイヤホン。
「……なんだと? そのイヤホンは、落としていたはず、では……」
「残念、貴様が対抗曲に怯んだ隙に回収済みだ。そうそう、これは大変高性能で特殊なものでな。スイッチ一つで外からの音を完全遮断することができるんだ」
「は……」
「そういえば、『The Deep Dark』の終盤はずっとスイッチをオンにしていたがな。……これが何を意味するか、君に理解できるか?」
――神の元へ導かれるには、完璧に演奏された『The Deep Dark』を聴かねばならない。つまり、条件を満たしていない曽根崎が扉を通ることは……。
「そんな……そんな!」
打楽器奏者の一人がその場に崩れ落ちた。まるで、魂が抜けたかのように。
「私は、たどり着いたのに!」
「神への扉を開いた者なのに!」
「周りの者とは違う!」
「あちら側に、選ばれた!」
「選ばれたのに……!」
「そうか。なら満足だろ?」
腕を組んだ曽根崎は、不遜に鼻を鳴らした。
「才ある人間には常に孤独が付き纏う。だがそれでいいんだ。何故なら自分は蠢き喚くしか能の無い人間共とは違う、上位存在なのだから。直ちに薄汚い人の皮を捨て、神と同等たるにふさわしき姿になるべきだろう」
「だが……!」
「だけど!」
「あんな……!」
「あんな場所で、一人だなんて!」
「……同情するよ」
一人、また一人と楽団員が倒れていく。その中で、曽根崎だけが微動だにせず立っていた。
「結局君は、君の中にあった最も人間らしい部分によって破滅したんだ。何故なら中伴氏への欲を出しさえしなければ、私はここへ来なかったのだから」
「私、私は……!」
「……古和イオよ。君は、俗世と共に人間らしい欲も捨てるべきだった」
最後の一人であるフルート奏者が昏倒した直後、突風が吹いた。風は全ての楽譜を巻き上げ、ステージ上に現れた闇の中へと吸い込んでいく。スーツやネクタイをはためかせる曽根崎は、室内ではありえないその現象を身じろぎもせずに眺めていた。
「……諦めろ。君も私も、決して触れてはならぬ扉に手をかけてしまった」
やがて、風が止む。倒れ伏した楽団員を尻目に、曽根崎は思い出したかのようにポケットから指揮棒を取り出した。
空っぽの客席を振り返る。背の高いシルエットが、優雅な一礼を披露した。





