19 逆転
白と黒。僕の指がそれら鍵盤を決められた通りに叩く。隣に座る藤田さんも、同じく。
藤田さんは、やっぱりすごく上手だった。細い指から紡がれているとは思えない力強い音と、繊細に刻まれる音の羅列。彼の正確なリズムに導かれ、高音側を担当する僕の指は歌っていた。
歌っていたのだ。こんなことは初めてだった。ピアノと一つになったような感覚と、心地良い浮遊感。まるで魂が体から離れ、空に自由にメロディーを描いているかのような。
これは演奏会じゃない。そもそも人を助けるための演奏だ。僕らはその装置になるだけでいい、そのはずだったのに。
(……楽しい)
こんな状況で、僕は生まれて初めてピアノを弾く喜びを感じていたのである。
「……」
藤田さんがチラリとこちらを見る。僕が頷いて返すと、彼は少し笑って両手を鍵盤に打ち下ろした。テンポが上がる。でも、ついていけた。まるで今の僕らは、四手を持った一体の人間のようだった。
だけどその時、曽根崎さんと繋がったイヤホンから短いアラームが聞こえた。それから間髪入れず、彼の声がする。
『二人とも! プランZだ!』
(……プランZ?)
その言葉を聞いた途端、僕は自分の顔が青ざめるのが分かった。――指示されたプランは、リスクが高い上に実現性が低いと判断された一方、最終手段として用意されていたものだったのである。
実は僕らのピアノは、完全防音の壁を張り巡らした状態で二階席の客席の一部として隠されている。プランZとは、この壁を取り払い直接ホール全体に対抗曲を響かせることだった。
だがこうなった場合、僕らは『The Deep Dark』の影響が出ないよう、事前に装着された特殊なイヤホンにより外からの音が遮断されることになる。何も聞こえなくなってしまうのだ。
すると当然連弾を続けるのは難しくなる。だけど、僕の焦燥の理由はそれだけじゃない。
――このプランが実行する時は、例外無く曽根崎さんの命が危険に晒されている状況だと。失敗は即ち彼の死に繋がるのだと、そう聞いていたのである。
(どうしよう……!)
狼狽すれど懸念された事態は起きてしまった。もう逃げられない。大きな不安に駆られた僕は、何かに縋りたくて藤田さんに顔を向けた。
「……!」
――彼の表情を見て驚いた。藤田さんは、優しく微笑んでいたのである。
突如鮮明に記憶が蘇った。幼い僕を抱きしめ、「大丈夫」と何度も言い聞かせてくれた藤田さん。何も変わらない。優しさも、温かさも、全部。
(……藤田さん)
なのに忘れていた。僕は本当に長い間、この笑みを忘れていたのである。
次の瞬間、世界から音が消えた。服の擦れる音も、藤田さんの息遣いも、勿論僕らの弾くピアノの音さえも。
それは藤田さんも同じだ。同じはず、なのに。
「いくよ」
何故か、藤田さんの声が聞こえた気がした。
彼の腕が大きく動く。音が鳴った。全ての音が存在しなくなった世界で、何故か僕は彼の紡ぐピアノを聴いていた。
それに合わせて指を動かす。泣きそうだった。まだ怖くて堪らなかった。でも、藤田さんがいてくれる。助けたい人がいる。それら事実が、問答無用で僕の体を突き動かしていた。
「……ッ!」
一度だけ、僕の指が滑った。心臓が跳ねる。体が一気に冷たくなる。曽根崎さんの横顔が、頭に浮かんだ。
咄嗟に藤田さんの体が僕にぶつかる。伸びた腕は僕の手に重なり、同じ音を弾いた。その間に、僕は何とか立て直すことができた。
触れた藤田さんの手は、とても熱かった。
(――やらなきゃ)
自らを、奮い立たせる。
(やってやる。僕がやる。絶対弾き切ってやる!)
この一週間何度となく歌ってきた音を、僕は力を込めて叩いた。
突如オーケストラに混ざり始めたピアノの音に、楽団員は――古和イオは、目に見えて動揺していた。その音が満ちる内に、曽根崎の体は少しずつ自由を取り戻していく。
「……はは、驚いたろう」
拳を握りしめ、曽根崎は言う。
「対抗曲がホールに満ちていれば、『The Deep Dark』の効力は発揮されない……。これで貴様は、神へと繋がる扉を開けなくなった」
「……」
「そして、観客を贄とすることも。……どうする? 日を改めるか? だが、既に『The Deep Dark』の認知は世間に広がりつつある。貴様は知らないだろうが、こうした不気味な事件を追い、撲滅する組織すら存在している。なんと国家権力の後ろ盾すら持った、な。
そんな過激な団体が訪れた日には、せっかく貴様が洗脳した楽団を丸ごと牢に押し込めるかもしれないぞ。そうなれば、貴様は人間の体に押し込められたまま、器の命が尽きるまで身動きが取れなくなってしまう」
「……」
「これぞ八方塞がりというやつだ。どうだ、そろそろ諦める気にならないか? 大人しく楽団員と観客を解放し、人らしく成仏しては……」
「何を世迷い言を」
チェロ奏者の一人が吐き捨てる。その顔を見た曽根崎は、眉をひそめた。
「痴れ者め」
彼女は、不気味に口角を上げていたのである。
「未練がましく人にしがみ続ける男の曲など、今更どんな妨げになろうか。『The Deep Dark』が終われば必然的に扉は開かれ、全ての聴衆は導かれることとなる」
「は……? だとしたら何故、直前になって中伴氏の音を消したんだ?」
「不要となったからに決まっている」オーボエ奏者が、口を開いた。
「あの曲は、神の国で奏でられたもの。故に聴き続けていれば、脆弱たる人間も上位音楽に耐え得る精神を持つことができる」
「お前が、どんな意味を想像していたかは知らんがな」
「あれは最後まであの方に指揮していただく為の、言うなれば準備運動のようなものだった」
「まあ、流石に精神に入り込めなくなるとは想定外だったが」
「……そんな」
口々に真実を聞かされた曽根崎の鋭い目は見開かれ、震えている。さもありなん。『The Deep Dark』が演奏されきってしまえば、全てを聴き続けていた曽根崎は“向こう側”へと連れて行かれてしまうのだから。
「ははは」
「ははははは」
「ま、待て……! 嫌だ……!」
「ははは……しかし」
「そうだな」
「念には」
「念を入れておこう」
まばらな声の後、一際大きなティンパニの重低音がビリビリと曽根崎の肌を震わせた。
そして、プツリと。
プツリと、突然ピアノの音が止んだのである。





