18 舞台上の攻防
そして場面は、オーケストラ『The Deep Dark』にまで進む。指揮台に立つ曽根崎は、美しく調和した音色に短く息を吐いて目を閉じた。
一糸乱れぬ演奏だ。まるで、たった一人により奏でられているかのような。
いや、事実そうなのだ。今やこれら全演奏者の意識は、亡きはずの天才作曲家古和イオに統合されているのだから。
「……ッ」
――何かが、脳に入り込んでこようとしているのを感じる。曽根崎は、あえて意識を逸らしイヤホンから流れるピアノの音へと向けた。
とめどなく紡がれるのは、狂気的でグロテスクな旋律。演奏する本人達は感じていないようだったが、聴く者からするとそうではない。背筋を冷たい舌で舐め上げられるかのようなおぞましき感覚に、曽根崎はゾクリと身を震わせた。
だが、脳に侵さんとする何かの力も確実に弱くなっていた。
(……やはり、中伴氏の頭に流されていた曲には『The Deep Dark』への抵抗力があった)
これが証明されたとなると、彼女の真意も見えてくる。曽根崎は濃いクマを引いた鋭い目を楽譜に落とすと、無理矢理唇の端を持ち上げた。
――良い展開じゃないか。特に、あのお人好しのアルバイトにとっては。
「さて、古和イオよ。一つ確認してもいいだろうか」
指揮棒の先をコントラバスへと向ける。奏者は弦をはじきつつ、殺意のこもった視線を曽根崎に返した。
否、コントラバス奏者だけではない。その場にいる全奏者が、同じ目で曽根崎を睨みつけていた。
「あなたにとっては、かなりの痛手だったんじゃないかな? せっかく手に入れた楽団員を、ただの一人として連れて行けなくなったのは」
だが曽根崎は臆さなかった。
「家を少々見させてもらったが、どうもあなたはこの楽団をお気に召しているようだ。いや……中伴氏の率いる楽団を、と言うべきか」
「……」
「あなたの目的は、恐らく二つあった。一つ目は、中伴氏に己の楽曲を指揮させること。二つ目は、神に“手土産”を献上すること」
言い終わる前に、千枚通しで貫かれたような痛みが側頭部に走る。額に汗が浮かべながら、曽根崎は再び意識をピアノの音色へと集中させた。
「……はは、図星か。分かりやすくていいな、君は」
刹那とはいえ指揮が止まったというのに、オーケストラは崩れない。いっそ機械的なほど、旋律は正確に紡がれていく。
「古和イオ。君は間違いなく天才だ。そしてその類稀なる才ゆえに、理論と感性だけで上位存在へと繋がる扉を開いてしまった。その扉となる音楽が、『The Deep Dark』だったんだろう?」
「……」
「『The Deep Dark』により扉を開いたあなたは、人知の及ばぬ向こう側へと行った。いや、行こうとした。その前に、君は自身の得た超越的な力の存在に気づいてしまったのだ。
そしてその力は、君が神への手土産を用意するのに大変適していた。では、その手土産とは何か?」
イヤホンの向こうで聴こえるピアノが、段々と激しくなっている。テンポが速くなり、叩き響く音も強くなる。
――景清らは、大丈夫か? 僅かな不安が脳を掠めたが、今考えてもどうすることもできないとかき消した。
「……当ててみせよう。手土産とは、ここにいる観客達のことだ」
曽根崎は、目を潰さんばかりに眩いライトへと手を広げた。
「君は、この観客らに『The Deep Dark』を聴かせることで扉を開き、向こう側へと連れて行こうとしたんだ。最初こそ、私も君の狙いは気絶させた演奏者だと考えたがな。それだとちまちま少人数ずつ洗脳させていたことに矛盾が生まれる。
推測するに、洗脳した者は扉をくぐる条件から外れてしまうんじゃないかな? その上、洗脳が行われるとせっかくの繊細な技術が失われてしまう。中にいるのは古和イオであり本人ではないんだ、当然だな。事実、中伴氏は気絶した楽団員の顕著な劣化を感じ取っていた。
だから君は、最後の最後まで気絶させる者を選別していた。わざわざベールを下ろした上で、本番のコンサートまで使ってな」
「……!」
「そこまでした理由は、洗脳の精度を上げたかったのか、まだ気絶していない楽団員に練習の場を与えたかったのか……ま、私には関係の無いことだ。
だが、最大の目的は『The Deep Dark』を最後まで演奏し、それを観客に聴かせることだ。途中でボイコットをするような者、または神経衰弱状態となり演奏に支障が出る者がいては本末転倒。結局君は素晴らしい楽団員を捨て、洗脳による正確な演奏をこの場に持ってくることを選んだ」
楽団の音が一層大きくなる。曽根崎はそちらに意識を奪われぬよう、必死で景清と藤田の織りなす音を聴こうとした。
「……しかし、そんな君も一つだけ諦めきれない存在があった。それが、中伴氏だ」
曽根崎は不気味に笑っている。精神が高揚していた。音の海に飲まれながら、彼は楽しくて楽しくて堪らなかった。
「音楽に造詣の深い知人が教えてくれたよ。中伴氏の指揮は実に素晴らしいらしいな。もしも君がそんな彼に心酔していたのなら、何が何でもあちら側に連れて行きたいと思っても全く不思議ではない」
「……!」
「だから君は、彼にだけ特別な処置を施した。それが、今私の耳の向こうから流れている曲だ。これを四六時中聴かせることで、君は中伴氏に『The Deep Dark』への耐性をつけさせたんだ。
そして、直前で接続を切った。中伴氏に導かれた『The Deep Dark』により、彼諸共向こう側へと連れて行くために」
――絶叫が、聞こえた。
誰の絶叫だったかはわからない。もしくは、ただ『The Deep Dark』の旋律がそのように聞こえただけか。しかし、その絶叫は寸分の狂いも無く曽根崎の鼓膜を貫いた。
「ぐっ……!」
初めて膝をつく。姿勢さえ保てず崩れる。拍子に、片方のイヤホンが耳から外れて転がった。
『The Deep Dark』が脳に流れ込んでくる。視界が揺れる。巨大な音の塊が曽根崎を押し潰そうとする。
――まずい。思考が乱されていく。『The Deep Dark』はどこまで演奏された? イヤホンはどこに落ちた? 自分は今、どうなっている?
明確な殺意の中、自分の意識が闇に落ちようとしているのを曽根崎は感じ取った。
「クソッ……!」
――この方法は使いたくなかったが、仕方ない。
曽根崎はポケットに手を突っ込むと、声の限り叫んだ。





