17 切り離せ
「わーっ! あの景清が! 我慢しっぱなしの景清が! オレに! この叔父さんに! 甘えた!! 記念日! 今日記念日! 景清がオレにずるいと言ったから今日という日は甘え記念日!」
短歌詠むな。いやそんなこと思ってないでちゃんと謝らなきゃ。え、謝っていい空気? コレどういう状況?
「ごめんね景清ーっ! オレ無神経だったなーっ!」
僕が何も言えない間に、藤田さんは矢継ぎ早に言う。
「でもさ景清、お前マジでしんどそうにピアノ弾くじゃん! だからオレもピアノ好きじゃないけど景清と弾く時はすげぇ楽しいんだよってそういうことを言いたかったんだけど何か上手く言えなくてさー! ごめんなー! 追い詰めるつもり一個も無かったんだよー!!」
「そ、そうなんですね。すいません、僕もうまく受け取れなくて、僻んでしまって……」
「そりゃお前今頑張っていっぱいいっぱいなんだもん、仕方ねぇよー!」
頭をわしゃわしゃ撫でられ、頬を擦り寄せられる。……あれ、ほっぺ濡れてない? この人泣いてる?
「実はさー……曽根崎さんに景清がピアノ弾ける事話したの、オレなんだ」
ぐすぐすと鼻をすすりながら、藤田さんが言う。マジで泣いてたよ、この人。
「連弾相手に景清を指名したのもオレ。本当は曽根崎さん、別の人をあてるつもりだったみたいなんだけどね」
「そうだったんですか?」
「うん。景清は一度『The Deep Dark』を聴いてるだろ? だから万が一を考えて、会場から遠ざけておくつもりだったんだって」
「あの人も過保護だなぁ。でも、それならどうして藤田さんは僕を指名したんですか? 僕のピアノの腕が大したことないのも、知ってるはずなのに……」
「……絶対に失敗しちゃいけないなら、適任は景清しかいないと思ったんだ」
藤田さんは、腕の力を弱めて僕の顔を見た。目の縁が、赤い。
「景清は、他の人の為となったら普通以上の力を出せる人間だろ。お前は知らねぇかもだけど、それみんながみんなできる事じゃねぇんだよ。大体は自分の事に必死も必死で、それほど他人に構ってられない。……でも、お前は違う。自分の為なら諦める障害でも、そこに助けたい他者が絡んでくると何が何でも乗り越えてくる。その辺、お前にも心当たりはあるよな?」
彼の指摘に、ふと某不審者面が頭をよぎった。少し前、僕は曽根崎さんの命を助ける為に進んで底無し穴に落ちた事がある。当時は無我夢中で気づかなかったけど、今思い返せば何故あんな事ができたのか分からない無鉄砲だ。
「だからオレは、今回の事件で助けたい人がいるお前なら絶対失敗しないと思ったんだ。野辺さんのこと、まだ諦めてないんだろ?」
「……はい」
「じゃあやっぱりお前は適任だよ。そんじょそこらの上手いだけの奴より、信念のある景清の方が信用できる。それが、オレがお前を選んだ理由だ」
「……」
――できる、のだろうか。いや、やらなくちゃいけないのだけど。僕は、彼にそこまでの信を置いてもらえる人間なのだろうか。
「できるよ、景清なら」
だけど、なおも藤田さんは僕を見るのだ。僕の揺らぐ芯を支えてくれる言葉と共に。
「確かに、お前とピアノにゃ嫌な思い出があるんだろうけどさ。ンなもん別に今と結びつけなくていいんだよ。勿論しんどいなら、後でオレにぶつけてくれていい。けど、今だけは思い切って自分から切り離すんだ」
「自分から、切り離す……?」
「そう。お前はこれまでたくさん弾いてきた。練習をこなしてきた。何より景清は、自分を克服する為じゃなく他人を助けることを動機に動く奴だ。
思い出せ、景清。お前が助けたい人を。やらなきゃいけないことを。技術や感動なんざ一つも乗せようと思わなくていい。ただ、誰かを助ける為だけの演奏装置になるんだ」
「……」
「そうすれば、お前は絶対に失敗しない」
まっすぐに僕を射抜く目と断言する強い言葉に、さっきまで棘ついていた僕の心は嘘みたいに凪いでいた。――自分の為じゃなく、誰かを助ける為に。その行動に、僕の感情は一切必要無いと彼は断言したのである。
そうだ。僕は全部一緒くたにして考えていたのだ。過去も、感情も、事件も、責任も、技術も、劣等感も。全てを指に乗せて弾いて、勝手に潰れそうになっていた。
でも、そんなことをしなくてよかったのだ。切り離して、手放してよかったんだ。
鍵盤の上に手を乗せる。例の九連符を叩いてみる。……指は、何のつっかえも無くスムーズに動いた。
「……いけ、ます」
僕は、小さな声で藤田さんに言った。
「やれます。もう大丈夫です。……すいません、藤田さん。ご面倒をおかけしました。今なら、やれると思います」
「そうか」
「はい。……ありがとうございます」
藤田さんは、黙って一度僕の頭を撫でた。少し髪が乱れたけど、何故か直す気にはなれなかった。
「じゃあもう一度連弾してみよう。いける?」
「はい。……ん? ちょっとすいません、着信です」
スマートフォンを取り出し、相手を確認する。……曽根崎さんだ。藤田さんに断りを入れ、通話ボタンを押して耳に当てる。けれどその二言三言の簡潔なやりとりは、僕を驚愕させるのに十分だった。
「中伴さんに代わって『The Deep Dark』の指揮をするんですか!? 曽根崎さんが!?」
『そうだ』
「で、でも……大丈夫なんです!?」
『そりゃあリスクはあるが。気にせず君は君の仕事を全うしてほしい』
「……!」
藤田さんの顔を見る。彼は、万事心得たように一つ頷いてくれた。
「……わかりました。準備はできてます」
だから僕は、曽根崎さんに返す言葉に悩まなくて済んだのである。
「任せてください、例の楽曲は、僕と藤田さんで完璧に演奏してみせます」
『うん、よろしく頼むよ』
軽い応答だった。まるで、頭から僕と藤田さんの技術を信じて疑っていないような。
……そうだ、曽根崎さんはこういう人なのだ。僕の葛藤など知らないみたいに、平気で頭から僕を信じ込んでくる。
「……助けなきゃなんねぇ人が増えたな」
電話を切った僕に、藤田さんが笑う。それからすぐに、彼は端正な顔に真剣な色を宿した。
「もう考えてる時間は無い。やるぞ、景清。オレらの音で、曽根崎さんたちを守るんだ」
思わず見惚れてしまいそうな真面目な横顔に、はっきりと頷く。今度は彼に向ける正しい表情のことなんて、一切考えることはなかった。





