16 甘え
それから一週間、僕は曽根崎さんとの約束通り、授業の合間を縫ってピアノの猛特訓をした。場所は誰がどう働きかけたのか大学構内のピアノを借りられることになり、おかげで僕は時間の都合さえつけば入り浸る日々であった。
他方藤田さんはというと、あっさりマスターした後は僕のサポートをしてくれていた。彼はどんなに僕がミスをしても、全く怒ることなく教えてくれたけど……。
「すごいな、景清! とても上手だよ! 全然ブランクを感じさせないし、テンポ速くてもついてきてるし! しかももうここまで覚えてきてるとか、なんていい子のかげぴなんだろう! チョコあげるね!」
「ここ難しいのに!? ここ難しいのにもうできたの!? 偉いなぁ、頑張り屋さんだなぁ! オレの甥っ子ときたら、天才の上に努力家さん! そうだ、腕大丈夫!? 湿布貼ってあげるね! それが終わったらクッキー食べよう!」
「ねぇ録音だけじゃなく録画もしていい? 何なら写真も撮っていい? オレこの瞬間の景清をありとあらゆる媒体に残したいんだ。……うわー、オレのかげぴが愛らし過ぎて現在進行形で世界が震えてるよ……! あ、そこのクーラーボックスにアイス入ってるから!」
「楽しい……! 景清と息を合わせてピアノ弾くの楽しい……! ねぇかげぴ、事件が終わっても時々一緒にピアノ弾かない? こうやって二人で時間取ってさ……。今日のおやつはモンブランケーキです」
――やりにくかった。とても、とてもやりにくかった。だってべたべたに褒めてくれるし、おだててくれるし、しまいにゃお菓子まで出してくれる始末なのである。僕は危うく目的すら見失う所だった。つーかかげぴって何。
けれどあくまで僕らの最終目標は、この演奏によって『The Deep Dark』の効果を打ち消すことである。その為には練習を重ね、一つのミスも出さないほど演奏に集中する必要があった。
幸い事前情報通り難易度はさほど高くなく、一週間で対処できるものだった。曲の長さもごく短く、四周する内に『The Deep Dark』は終わる。だからその分、十分な練習時間が取れたはずなのだけど――。
「うーん……やっぱここの九連符が難関か」
本番まであと数時間と迫った、現在。藤田さんの白い指が、さっき僕がミスした該当箇所をなぞった。
「景清の技術的には絶対弾けるはずなんだけどな。実際ここを抜き出して弾く分には問題無いし」
「すいません……」
「いや、謝ることはないよ。多分変なクセがついちゃってるんだろうな」
もう何度目になるか分からない、藤田さんとの連弾練習。なのにこの期に及んで、僕は一度もノーミスで演奏できたことが無かったのである。
睡眠時間を削ってまで楽譜を読み込み、使える時間は全部練習に使った。だというのに、この九連符が来ると手が動かなくなってしまうのである。どうにかしようと躍起になっていたけど、やればやるほど指は硬直し、なんなら他の部分まで失敗する始末だった。
「意識し過ぎだと思うんだよな」腕組みをした藤田さんが言う。
「だから反復練習して成功体験を重ねれば、全然イケると思うよ。失敗のクセを成功のクセで上書きするってやつだな」
「……でも、もう時間がありません」
「あるよ。むしろ今からの方が効果的まである。集中してできるし……」
「……」
「……景清」
僕の頭に伸びてきた手に、思わずビクッと身構える。藤田さんは一瞬驚いた顔をすると、静かに「ごめん」と言って腕を下ろした。
「……そうだよな。嫌な思い出が多いね、オレもお前も」
「……え?」
「ピアノ。多分だけど、お前にとってあんまりいい思い出じゃなかったろ」
鍵盤を一つ叩いて、藤田さんが微笑む。端正な笑みだったけど、どことなく寂しそうにも見えた。
「実はね、オレもピアノはそんなに好きじゃなかったんだ」
「藤田さんも?」
「あれ、意外だった? まあオレ上手いからね」
「自分でおっしゃいますか」
「幼い頃からやらされてきたんだ。上手くもなるよ」
彼の指が一音ずつピアノを叩く。シューマンのトロイメライだ。
「物心ついた時から、ずっとピアノを弾かされてきた。あって当然、やって当然、できて当然。そこにオレの感情や人格は必要無くて、求められるのは目の前にある楽譜の音を正しく叩くことだけ。
だからオレの弾くピアノは上手いんだよ。だって人間じゃなくて、ただの装置なんだからさ。何の匂いも味も無い、ピアノの音を鳴らす装置。我ながらつまらねぇなぁって思うよ」
……そんな藤田さんの言葉に、僕も少しずつ記憶が蘇ってきた。藤田さんが演奏するのを見た母が、僕にやらせたピアノという習い事。独特の匂いがする教室で、僕は必死で短い指を伸ばし白い鍵盤を叩いていた。顔を上げると目に飛び込んでくるのは、並ぶ音符の海。飲み込まれそうで、でもうまく泳がなきゃいけなくて。そうすると、焦ってだんだんと息すらできなくなった。
指先が冷たい。ちゃんと動かなくて、ミスをする。そのたびに先生に怒鳴られ、少し遠くで僕を見ていた母は失望のため息をついた。
――思い出した。僕にとってピアノとは、自分が見捨てられないようにする為の手段でしかなかったのだ。
『いいのよ』
母の声が蘇る。冷たく、吐き捨てるような。
『どうせ、最初から期待とかしてなかったから』
でも、ダメだったのだ。僕は言われたことすらこなす才能が無かった。どれだけ努力しても藤田さんみたいに弾けなくて、何度も親をがっかりさせていた。
そして、今もそれは変わらない。役目を果たさなければならないのに、僕の手はずっと役立たずで使い物にならないままだ。
胸が溢れそうになる。劣等感と、嫉妬と、羨望と、無力感で。
「……上手い、なら……」
「うん?」
「上手いなら……それで十分じゃないですか」
うつむいたまま、呟く。涙は出なかったけど、自らの不甲斐なさに声が震えていた。
「僕なんて、藤田さんの百分の一もできないですよ。全部中途半端で、どこにも身の置き所がありません。なのに、どうして全部持ってる藤田さんがそう自分を卑下するんですか。僕の立場、一個も無くなるじゃないですか」
「……」
「今だって、こうしてミスばっかしてます。人の命がかかってるかもしれないのに、全然上手くできません。……羨ましいです、藤田さんが。どんだけやっても僕が人並みにすらできないことを、藤田さんは平気でやれる。……贅沢です。ずるい、ですよ」
……あ、これ僻んでるな。どう考えても僕、拗ねて僻んでる。わかっちゃいたけど、一度決壊した黒い感情は止まらなかった。
ダメだなぁ、僕。下手くその上に八つ当たりかよ。底辺も底辺で、そんな自分が心底嫌になった。
藤田さんに謝らなきゃいけない。一回深呼吸したら、すぐごめんなさいって言おう。だけど、そう思っていたら……。
「うわああああああ!!!!」
完全防音の壁をぶち抜きそうな絶叫と共に、柔らかな匂いに包まれた。ぎゅーっと体が締め付けられ、すりすりと頬擦りをされる。
「景清が!!!! オレに!!!! 甘えた!!!!」
――何故か僕は、大興奮した藤田さんに抱きしめられていた。





