12 三人の家宅捜索・下
「また中伴さんか。第九って何?」
「ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125のことでしょうね」
「何? 呪文?」
「一応見てみる?」
柊はプラスチックケースに入ったDVDを本棚から取り出すと、阿蘇に向かって掲げた。
「そうだな。せっかく起動してるし、パソコンで読み込んでみるか」
「あ、待って。まだDVDがあるわ。これも第九」
「そっちも中伴さん?」
「ううん、こっちは『坂軒指揮』って書いてる」
「ふぅん。まあどっちも持ってこいよ。時間はあるし、何か情報が得られりゃ万々歳だ」
パソコンはスイッチ一つでDVDを飲み込み、映像を再生し始める。映し出されたのは、割れんばかりの拍手の中で指揮台に向かう一人の男。中伴だ。彼は指揮台の上に立つと、くるりとオーケストラの集団に体を向けた。
そして、指揮棒が振り上げられる。
「やっぱ、何回聴いても名曲よねぇ」鳥肌の立つ荘重な旋律に、柊はうっとりと呟く。
「ベートーヴェンは偉大だわ」
「そうか? なんか不安になる曲だけど」
「短調だからかしらね」
「単調? 別にそうは思わねぇけど……とにかく俺は知らねぇ曲だな。兄さんは?」
「言われてみれば高校の音楽の授業でギリやったような気がする」
「んもー、仕方ない男どもねえ。じゃあこのあたりならどう?」
呆れた様子の柊が音楽を進め、全体の五分の一ほどの場所で止める。ちょうど『歓喜の歌』の部分。流石にこれは聴いたことがあったようで、阿蘇もうんうんと頷いた。
「年末によく流れてるやつだ」
「つくづく俗い男ね、アンタ」
「うるせぇ、こんなもん興味の範囲の問題だろ。柊だって、いきなりフェネグリークだのディルシードだの言われて分かるか?」
「何よ、助っ人外国人選手の名前?」
「いや香辛料」
二人がやいのやいの言いながらDVDを見ている間に、曽根崎は部屋の探索に戻ることにした。古和イオの作業用机には、手書きの楽譜が散らばっていた。パソコンを見るにデジタルも併用していたようだが、どちらかというとアナログの作曲家だったのかもしれない。
それら楽譜を見ていると、何枚かに文字が書かれていることに気づいた。かなり乱れた雑な走り書きではあったが、どうにか一部を読み取れた。
『短調、不協和音、強弱、緩急、(解読不能)、直感的に引っ掛かるコード、音のうねり、恐怖、不気味なる(解読不能)、脳への(解読不能)』
『不安→展開への期待→カタルシス、解放→(解読不能)』
『ホーミー』
『緊張状態が続くことによる膨張』
『一線を超えること。(解読不能)臨界点はどこにある? 不快を突き詰め頂点で拡散させる 膨張の(解読不能)カタルシスを爆ぜさせよ』
『扉を開く 神のもとへもうすこしもうすこしもうすこし(解読不能)』
『もうすぐわかるわかるわかるはずみえてきたみえてきた』
『精神を穿てばそこからはいりこめるるるうう(以降長文が続くが解読不能)』
『みえた』
「……」
曽根崎は、顎に手を当てて考えた。……これは恐らく、『The Deep Dark』を作曲するにあたっての古和のメモだろう。不可解な点も多いが、いくつかには心当たりがあった。
そして確信する。やはり、彼女はその卓越した才により開いてはならぬ扉を開いたのだろう。人ならば無意識に忌避する場所に、彼女は敢えて目を開き踏み込んだのだ。
そして、とうとう……。
「ダメねぇ、なんにもおかしなとこは無いわぁ」
柊の声にハッとする。曽根崎が見ると、彼女は阿蘇の座った椅子をぐるぐると回しながらパソコンの画面を眺めていた。
「ほんと普通のオーケストラよ? そりゃ素晴らしいとは思うけど……」
「やめろやめろ、柊。目ぇ回んだろが」
「でもこのDVDはただの資料ね。間違いないわ」
「そうか? けど、それならなんで古和イオはわざわざ同じ曲を持ってたんだよ。どっちか一つで良くね?」
「あら、お言葉ね。言っとけど、この世に一つとして同じ演奏は無いのよ? 楽団によって、演奏者の気分によって、そして指揮者によって全然違うものになるんだから」
「へぇー目ぇ回るー」
「だから同じ曲をいくつも集めるのは珍しくないけど……それにしたって、この中伴って人はすごいわね」柊は人差し指を唇に当て、感心したように頷いた。
「演奏者を完璧に理解してるって感じ? もちろん演奏者達もすごいんだけど、そんな彼らを導く存在っていうのかしら。音の一つ一つが際立ってて、なのにとても調和してるのよ。指揮の姿も格好いいし、正直ゾクッとしちゃったわ。ボクこの人の名前知らなかったんだけど、ファンになっちゃうかも」
「ふーん、そこまですげぇんだ。俺全然わからなかったけど」
「鈍いわねぇー。そういう了見だから音痴治んないのよ?」
「治すつもりもねぇんだわ。ほっとけ」
「……」
──やはり、そうだったのか。曽根崎は、口の中で呟いた。
これで、推理が頭の中で繋がった。ある程度想像はできていたものが、先程の柊の言葉で完全に統合されたのである。
ならば、次に起こることが見えてきた。曽根崎はパソコンの前まで行くと、何も言わずにボタンを押してDVDを抜き取った。
「ちょっとシンジ、まだ見てる途中じゃない」
「必要な情報は集まったからもう不要だろ。これは私が借りていくことにする。ってなわけで今日は解散だ。お疲れさん」
「えっ……! 勝手に持っていっていいの!?」
「良くはないだろうが、必要だから」
「お、窃盗の現行犯だな。捕まえとこう」
「勘弁してくれ。まあそういうわけで……」
曽根崎は、くるりと阿蘇らに背を向けた。
「あとはよろしく」
「あとは……って、ええっ!? この散らかし倒した部屋はどうすんのよ!? ボクらに片付けとけってこと!?」
「頼む」
「あ、走り出した! ちょっと逃げたわよ、タダスケー!」
「すまん、柊。先に俺と一緒に証拠隠滅をしてくれ。どこぞの誰かが遠慮なく回しやがったせいでまだ若干気持ち悪いし、何よりこのままじゃご遺族にも申し訳ないだろ」
「うっ。……わ、わかったわよ。二人で部屋を片付けましょう。シンジのことは追いかけたいけど、ここはぐっと堪えて諦め……」
「なくていい。済んだら二人でクソ兄探して殺そう」
「ガッテン!!」
元気いっぱい柊が返事をする。これで曽根崎の運命は決まったようなものだが、怪異の掃除人たるものこれしきで臆してはならないのだ。
……とはいえ、その晩彼は家に戻らずホテルを借りたのだが。逃げられる危険からは逃げた方がいいし、やはり助手ならいつもの彼一人がいい。時々窓の外を気にしながら、曽根崎は深いため息をついたのだった。
「――どうもこんばんは、中伴様。曽根崎です」
深夜、曽根崎は電話をかけていた。
「お声を聞く限り、大分精神的に参っておられるようですね。どうぞ心を強く持ってください。もう少しの辛抱ですので。……ところで、楽団員との練習はどうなっていますか?」
「……なるほど、楽団員も気絶しなくなり『The Deep Dark』も“通し”で演奏できるようになったと。では、その上で何か気づいた点はありませんか? ……ええ、些細なことでも構いません」
「……ふむ、時々音が無くなったり、違ったりすると? それは演奏者によるミスですか? それとも、敢えてそうしているとか」
「……そうですか。ミスとは言い切れないが、あからさまのようにも感じると。……」
「ちなみに、無くなる音はいつも同じですか? 楽器やパートは……」
「……わかりました、貴重な情報ありがとうございます。こちらも解決に向け動いて参ります。……はい、無論承知しております。全てスムーズに動いており、何も問題ありません」
闇の中、曽根崎の口角が持ち上がる。
「――『The Deep Dark』も含め、古和イオの遺産をお客様に披露する。それこそが、我々の絶対目的でございますから」
薄い彼の笑みを見ていたのは、窓から覗く半分に欠けた月だけであった。





