10 大学生の本分
狂気に誘う音楽、次々に気絶しては洗脳されていく楽団員、耳を連れて行かれたと言う指揮者、助けられなかった野辺さん――。
頭を満たす事項は、山のようにあった。けれど、いくら怪事件でもやもやした気持ちが晴れなかったとしても、僕の本分は学生である。曽根崎さんに同行したコンサートの翌朝、僕は大学の講義室でノートを広げていた。
うっかり履修をミスってた一般教養系の授業である。ド理系の分野だけど、担当する准教授のわかりやすい解説のお陰でなかなか楽しく授業を受けていた。
「景清ー!」
「お、三条」
「ふえー、間に合った! オレもうダメかと思ったよー!」
友人である三条正孝が講義室に入ってきた。彼は僕の隣に座るなり、へちゃりと崩れる。
「景清が授業とってくれてて良かったー。お前のオハヨーコール無かったら絶対間に合わなかったぜ」
「しっかりしろよ。お前学校の先生になるんだろ?」
「ほんとにな。よし、オレは今日から生まれ変わるんだ」
「それ一週間前にも聞いた気がするけど……」
「昨日は大江ちゃんにも言った」
「全然ダメじゃん。生まれ変わるだけ損じゃん」
「ひぃん」
大江さんとは、三条が家庭教師をしている女子高生である。ひっそりと三条に恋をしているが、悲しいかな、本人がこの調子なので今の所報われていない。
「つくづく一人じゃ生きていけねぇなぁ」
机に肘をつき、三条がつぶやく。
「助けられてばっかだよ、オレ。この授業だって、景清が履修漏れ無いか確認しとけって言われなきゃ取るの忘れてたもん」
「漏れてたの四個だっけ?」
「六個」
「多いだろ……。お前先生になったらほんと気をつけろよ」
「景清も先生にならない?」
「三条の世話する為に? いくらくれる?」
「逆に払えばなってくれんの?」
友達に頼られるのは悪い気がしないのだ。むしろ、必要とされてるみたいでちょっと嬉しかったりする。
授業の開始を告げるチャイムが鳴る。同時に、女の子達の色めき立つ声が聞こえた。
「あれ、今回先生違うんだ。……ん?」
出し忘れていた参考書をカバンから取り出そうとしていた僕は、三条にチョンチョンとつつかれる。
「ねえ景清、あの人お前の知り合いじゃね?」
「知り合い? 教壇に立ちそうな人なんて知らないけど……」
しかし、黒板に顔を戻すなり前言撤回した。何故なら、そこにいたのは──。
「どうもー。丸田先生が急病のため、本日だけ代理を務める藤田と申しますー」
── 爽やかな笑顔を振りまき、愛嬌たっぷりに手を振る叔父の姿であった。
「今日は小テストがメインですけど、残った時間でちょっと授業を進めるよ。よろしくねー」
顎が外れそうなほどあんぐりと開いた口が戻らない。すると、僕の存在に気づいた藤田さんがVサインと共にウインクした。
「あと、文学部3年生の竹田君は後でオレの所にくるように☆」
授業を!! 業務連絡に使うな!!!!
そんなツッコミが喉まで出かけ、どうにか堪えて机に突っ伏した。僕偉い。阿蘇さんだったらグーパン出てだぞ。
「知らなかったなぁ。藤田さん、うちの大学の院生だったのか。学部棟違うから全然気づかなかったよ」
隣からのんびりした声がする。そうかー、一緒の大学だったのかー。なんで藤田さんも教えてくれなかったんだ結構大きな情報だぞー。
藤田さんの授業は分かりやすいながらも脱線が多かったため、予定した所までは行きつかなかった。しかし生徒人気(主に女子)は絶大なもので、後日アンコール授業が開かれることとなる。仕事サボんな、丸田准教授。
そういうわけで、藤田さんに呼び出された僕は彼の研究室を訪れていた。
「大学の先生はいいなぁ。世界の未来にご奉仕してる気分になれるもんね」
いかにも理科室っぽい匂いの立ち込める部屋で、藤田さんはコーヒーを入れたマグカップを僕に差し出してくれた。
「お友達は良かったの? 三条君」
「はい、アイツこの後も授業あるんで」
「そっか、残念」
何が残念なのか分からない。っていうか親しげに藤田さんに話しかけられたせいで、あの後何人もの女の子に囲まれたんだぞ。三条はなんか嬉しそうだったけど、彼女らの目的はどう考えても藤田さんなので僕は悲しかった。
「ところで、僕を呼んだ理由は何なんですか?」
「んー、もう少しで来ると思うんだけど……」
藤田さんがチラッとドアに目をやる。すると示し合わせていたかのようにガラリと開いた。
覗いたのは、筋肉質なお兄さんの強面。
「よしっ、やっと当たったな!」
……当たった?
「おい兄さん、藤田見つけたぞー!」
「ん、そうか。ご苦労さん」
阿蘇さんに続いて曽根崎さんも登場する。そんな二人を見て、珍しく藤田さんは露骨にイヤそうな顔をした。
「ちょっ……まさか二人とも、片っ端から研究室覗いてたの? あれほど北棟の三階の一番南の部屋っつったじゃん」
「そうだっけ? ごめん、お前からの言葉びっくりするぐらい右から左へ抜けるんだわ」
「ひっどい。ねぇ聞いた、景清? これが親友の言うことかよ」
「つまり親友と思われてないのでは?」
「オレの味方はいねぇのか!」
大袈裟に嘆く藤田さんだが、日頃の行いがものを言ってるだけな気がする。まあ阿蘇さんと藤田さんは幼稚園の頃からの腐れ縁だから、悪い仲ではないのだろうけど。
「さて、君と藤田君が揃っているなら早速話に移ろうか」
僕のコーヒーを勝手に飲み、曽根崎さんが口火を切る。
「まずは景清君にだ。景清君、君は今日から、一週間私の事務所に来なくていい」
「へ」
予想外の一言に思考が停止する。しかし彼は構わず続けた。
「それよりもやってもらいたいことがあるんだ。心配するな、ちゃんと同じだけの給金は払うよ」
「や、やってもらいたいことって、」
「ああ、早速これを見てほしい。藤田君も来なさい」
「はいはいよー」
謎のシミがこびりついた机の上に、曽根崎さんが無造作に紙をばら撒く。それらを見るなり、僕と藤田さんは目を見開いた。
「これ……! まさか!?」
「うん、そのまさかだ」
藤田さんを見る。彼は真剣な顔で紙に見入っている。阿蘇さんを見る。「ん」と一つ頷かれる。
最後に見た曽根崎さんは、不敵に笑っていた。
「見ての通りだよ。……君と藤田君には、一週間後までに“これ”を完成させてもらいたい」
僕は雇用主からのとんでもない要求に、ただ唖然とするしかなかった。





