6 野辺さんの証言
元吹奏楽部ということで、このホールにも来たことがあった僕である。少し分かりにくい場所にあった楽屋Cも、すぐにたどり着く事ができた。
「じゃあ行ってきますんで、藤田さんは外で待っててくださいね」
「分かった。けどくれぐれも出てくる時には合図をくれよ。鉢合わせしちゃまずいからさ」
「合図……なら合言葉でも作っときます?」
「『爆乳』」
「なんでもいいわけじゃねぇ」
結局、『今日は雨が降りますか』という言葉で知らせることになった。爆乳とかどう会話の中に織り交ぜればいいんだよ。
こうして合図も決まった所で、いよいよ僕は楽屋の前に立った。唾を飲み、ゆっくりと深呼吸をしてドアノブを回す。ガチャリという金属音と共に、容易くドアは開いた。
覗き込んだ部屋の中は、電気が消えていて真っ暗だ。思わず怯みそうになったけど、藤田さんがついていてくれる心強さに背中を押され、「すいません、さきほどメモをいただいた竹田と申しますが」と声を張り上げる。
奥の方で、ごそりと黒い塊が動いた。
「……来てくれたんですか」続いて、沈んだ男性の声も。
「は、はい! その、曽根崎のほうは来られなかったんですが……!」
「……。構いません。ぼくにも、あまり時間は残されていませんから」
時間が?
どういうことか聞こうとしたけど、ぬらりと影が立ち上がったので口をつぐんだ。
「戸を閉めてください。話をしましょう」
「でも、明かりが……」
「不便でしょうが、このままでお願いします。……もしかしたら、外にいる奴らに気づかれるかもしれないから」
一瞬、藤田さんのことを言われているのかとヒヤッとした。が、そうじゃないらしい。どうも彼は他の楽団員のことを言っているようだ。
「あと、声も極力抑えて。あまり意味は無いかもしれませんが……」
「分かりました。ええと、あなたの名前は?」
「……野辺といいます。担当している楽器は、チューバです」
廊下からの明かりで、野辺さんの顔が少し見えた。……確かに、あの時僕にメモを渡してきた人で間違いない。けれど、ドアを閉めるよう指示されたことで光源が無くなり、また顔は見えなくなった。
もっとも、それは向こうも同じだろうけど。
「突然あんなメモを渡してすいません。驚かれたことと思います」
「いえ、大丈夫です。早速本題に入りますが、野辺さんが僕をここに呼んだ理由は何ですか?」
「……助けて、ほしいんです」
野辺さんの声が、緊張に上ずった。
「理由は今から説明いたします。少し長くなるのですが……」
「構いません。お願いします」
こうして僕は、彼から『The Deep Dark』を巡る不気味な経緯を聞くこととなった。まず、一番最初の合奏でそれは起こったという。個々で演奏している時には何も問題無かったのに、合奏を始めた途端激しい頭痛と陶酔感に襲われた。特に陶酔感のほうは凄まじく、まるで楽器や曲、更にそれら上位の存在と一体化しているような素晴らしい感動に浸れたらしい。けれど、突然音が途切れると同時にふつりと意識が戻り、周りで楽団員の半数が気を失いぐったりとしているのを見て彼は愕然とした。
そして、この現象は、野辺さんだけではなく他の楽団員や指揮者の中伴さんにまで及んでいた。故に皆で話し合い、本来なら『The Deep Dark』は危険な曲として以降の演奏は取り止められるはずだったのである。
けれど翌日。合同練習の際、何故か中伴さんは『The Deep Dark』の合奏を強行した。
当然また何人かの楽団員が気絶したが、此度の枢要な異変は他にあった。それは、彼らが目覚めた時──。
「──『演奏を続けるべきだ』と。昨日反対していたはずの人達が、何故か気絶を機に口を揃えて言うようになっていたのです」
暗闇の中で、野辺さんの頭が神経質に揺れた。
「その他に何も変わった所はありません。彼らは支障無く日常生活を送っていますし、家族だって全く不審に思っていない。……ただ、異様なまでに『The Deep Dark』の完奏に固執するだけで。けれど、それがぼくにはとても恐ろしいことに思えたのです。
かといって、中伴さんや楽団に反対する勇気もありませんでした。何人か声を上げた者もいましたが……全員、次の合奏の時には気絶し、賛同者へと変わっていた。それでも激しく抵抗した者には……ぼ、暴力すら振るわれました」
「……酷いですね。でも、どうして野辺さんは無事だったんでしょう?」
「ぼくは……全てに怯えて、周りに同調し続けてきました。諦めることで、今日まで難を逃れてきたんです」
「諦めることで?」
「だけど、それも終わりです」ここで野辺さんは、僕の両腕を強く掴んできた。暗闇の中で、ギラギラとした彼の目が僕を捉えた。
「ぼくは、こうしてあなたに接触してしまった。助かろうと、演奏を妨害した! だから、もう手遅れなんです。た、竹田さん、今すぐ早くアイツらを殺してください! ぼくが気絶させられる前に、楽譜を燃やすんです!」
「お、落ち着いてください、野辺さん。外の人に気づかれますよ」
「ぼくは逃げられなかった! 逃げ出す勇気も無かった! こ、この反逆がバレたらどうなる!? 気絶したらどうなるんだ!? ぼくは……ぼくが無くなるのか!? アイツらのように!」
「野辺さん」
「か、か、考えるだけで、ぼくは怖くて怖くてこわくてこわくて……! ッた、たすけて! 竹田さん、ぼくをたすけて!!」
「野辺さん!」
強めに名を呼ぶと、野辺さんの肩ががっくりと落ちた。……息が荒い。誰にも話せなかった恐怖と不安の塊が、とうとう僕の前で爆発したのだ。
僕は、震える彼の肩をぎこちなくさすった。
「……次にぼくらが人前で演奏するのは、一週間後です」
涙の混じった彼の言葉に、頷く。それは僕も知っていた。そして、最も大きな会場で開かれる最後の古和イオ追悼コンサートだということも。
「たとえ何もしなくても……おそらくそれまでに、楽団員は全員変えられてしまうでしょう。その中の一人に、き、きっとぼくも……!」
「そうはさせません。野辺さん、とにかく今は早くここから逃げましょう」
もう一刻の猶予も無いように思えた。顔を上げた彼の輪郭に向かって、僕は頷く。
「大丈夫です。ここから逃げさえすれば、しばらく身を潜める場所は確保できます。なんなら僕も付き添いますから」
「む、無理です……。あいつらは、今すぐ一人残らず殺さなきゃ。そうでなきゃ、ぼくを追ってくる。絶対に……」
「どうしてそう思うんですか」
「……『逃げ出そう』という思考を、持ったからです」
僕の腕に、野辺さんの涙とも汗ともつかない液体が落ちた。
「逃げ出そう、反抗しよう、演奏をやめよう。曲の演奏を妨害する奏者を、楽団は決して許しません。すぐに目をつけ……てしまう」
「……今、なんと仰いました?」
「だから、早くアイツらを殺さなければ……!」
抑えた声量のせいか、肝心の部分が聞き取れなかった。けれど教えてもらおうとするより先に、外が騒がしくなる。誰か数名が口論しているようだ。
「ヒッ」と野辺さんが悲鳴をあげる。闇の中で彼の影が動き、部屋の隅へと消えた。
だがそんな彼に声をかけようとした時、藤田さんの大声が聞こえた。
「今日は、雨が降りますか!」
──しまった。外に来ているのは楽団か!
周りを見回す。けれど、この部屋にはドア以外に逃げられる場所は無い。隠れる場所も、殆ど……!
考える時間すら無かった。ドアは再び無機質な音を立て、その口を開けたのである。





