3 未完奏の楽譜
そこで見たのは、ある種異様な光景だった。
「クソッ! ま、まただ……! また……!」
指揮台の上には、悪態をつきながらうずくまる男の人。その周りにいる楽団員はというと、あんなことが起こったにも関わらず何故か平然と椅子に座ったままだった。
……いや、二、三人うつむいている人がいるな。大丈夫だろうか。
「中伴さん」
だが、曽根崎さんは迷いなく指揮者に向かって歩いて行く。すると、指揮者の人が頭を上げた。その目は落ち窪み、ひどく憔悴しているように見えた。
「ご報告します。とうとう演奏中に様子がおかしくなる観客が出始めました」
「そ、そ、曽根崎さん……」
「当初に比べ、着実に事態は悪化しています。今回は不本意ながら私が介入し事なきを得ましたが、次も同じようにいくとは限らない」
「……やはり、あ、あの法螺貝は貴方でしたか」
「やむを得ませんでした」
「ふ、普通なら出禁ものですよ」
「緊急事態でした」
演奏中に法螺貝を吹き鳴らしたのに、頭も下げない尊大である。むしろすげぇ伸びてんな、背筋。
けれど彼がいなければ、大惨事になっていたのもまた事実だ。頭がおかしくなっていたのは僕だけじゃない。曽根崎さんが法螺貝を吹いて演奏を台無しにしていなかったら、客席は狂乱の場と化していただろう。
だというのに、指揮者の男──中伴さんは苦しそうに顔を歪め、首を横に振った。
「……ま、まだ、です」
立ち上がり、タキシードの埃を払いながら。
「まだ私どもは、この曲……『The Deep Dark』を、演奏し切っていません」
「中伴様」
「そ、そもそも貴方とはそういった契約ではなかったはずだ!」
ベールの向こうでは、既に分厚い緞帳が降りている。それでもあくまでも聴衆に配慮した声量で、中伴さんは言った。
「古和イオの楽曲を演奏する。それに伴う障害を未然に防ぐ。そ、それが貴方に依頼した内容です!」
「承知しております。事実、『The Deep Dark』以外の楽曲は問題無く演奏できておりますし、今回事件の発生も食い止めました。
今後に関しては……そうですね。事前調査により、楽器のパートごとに分かれていれば演奏でき、かつ聴く分には支障が無いと分かっています。あらかじめ録音したものを後ほど合奏として編集し、それをコンサートで流すというのはどうです?」
「そんな聴衆を騙すようなことなぞできるか! 大体録音を流したと世間にバレたら? 呪われた楽曲によりやむなくそうしたと言えというのか!? いい笑いものになるのがオチだぞ!」
「かといって、その大事な客をリスクに晒すのはいかがなものかと思いますが」
「そうならないよう、貴方に依頼したんでしょうが!」
苛々する中伴さんに、曽根崎さんは薄く微笑む。どこか小馬鹿にしたような、相手の神経を逆撫でする笑み。でも僕には分かる。これ面倒くさくなっているだけだ。
依頼の経緯は分からないけど、このままだと「じゃあこの件は破談ということで」などと言いかねない。慌てて僕は、二人の間に割って入った。
「とりあえず一旦解散しませんか? 話し合いなら別の場所でもできますし、ここはステージの上ですし」
「……貴方は?」
「彼は私の助手をしております竹田です。この事件にも協力してもらっています」
「……」
しばらく中伴さんは無言でいたが、まもなく楽団に短い号令をかけた。それを合図に楽団の人達は腰を上げ、ぞろぞろと舞台袖に消えていく。特に不安そうにするでも会話するでもなく、すんなり行動に移せるのは流石プロといった所か。
そういえば、うつむいていた人達は大丈夫だったかな。そう思って記憶を頼りに探していると、ドンと背中に鈍い衝撃を覚えた。
「す、すいません」
振り返ると、曽根崎さんより少し年上ぐらいの男性が申し訳なさそうに頭を下げていた。けれど、それにしてはまだ妙に距離が近い。
ふと気がつく。男性の右手は、何故か僕のパーカーのポケットに触れていた。
「?」
キョトンとする僕から手を離し、「では」と男の人は早足で去っていく。……ゴミでもついていたのだろうか。不思議に思いつつ、僕は何気なくパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
「ほぎゃっ!?」
知らない何かが、指の先に触れた。
「な、な……?」
「おい、どうした景清君。行くぞ」
「あ……はい!」
曽根崎さんの元に向かいながら、恐る恐るもう一度ポケットに手を入れてみる。……感触的に、紙か何かだろうか。文字でも書かれているのかもしれない。
けれど、今ここで確かめるのはあまり良くない気がした。もしこれがあの男の人のものなら、他の人にはバレたくない代物に違いないからだ。
あとで曽根崎さんに相談してみることにしよう。そう決めて、僕は紙が落ちないようポケットにしまい直した。
「これは、除霊や何やらでどうにかなるようなモノではありません」
楽屋にて、曽根崎さんと中伴さんは平行線の話し合いを続けていた。
「何故なら楽譜にそういう“システム”が組み込まれているのです。聴く者を狂気に陥れるような何かがね」
「し、しかしそれも百パーセントではないんでしょう? たまたま感性の鋭い者が影響を受けるだけかもしれない」
「フランツ・リストの逸話の如くでしょうか? 彼の演奏のあまりの素晴らしさに、女性らが次々と涙し卒倒したという」
「馬鹿にしているのですか」
「まさか。私はあくまで、中伴様のご意見を正しく受け取る努力をしているのみです」
その割には、偉そうにパイプ椅子に足を組んで座っているが。呆れる僕の視線をよそに、曽根崎さんはため息をついた。
「ともあれ、発現が百パーセントでないのはより厄介ですよ。分かる範囲で調べましたが、正気を失った者に共通点は特にありません。例の『The Deep Dark』を聴いたという以外にはね」
「で、ででですがあの曲は目玉ですよ!? えええ演奏できないことには、な、何のために古和イオのコンサートが開かれるか、わ、分かりません!」
「ほう、目玉」
どもりがちの中伴さんを、曽根崎さんが鋭く睨みつける。
「目玉と言う割には、三度のコンサートを開催しておきながら未だ一度たりとて完奏できていないでしょう? 前回と前々回は、楽団員の何人かが気を失った為に」
「そ、そうですが……」
「そして今回は、法螺貝が乱入したから」
「……ああ」
法螺貝の乱入。何度聞いても、とんでもない理由である。
でも中伴さんはもう気にしていないらしく、白髪混じりの頭を振って食い下がった。
「け、けけれど、気絶した楽団員にはその後変わった様子はありません! そ、その数も格段に減ってきています! つまり、い、いい曰く付きの曲だろうと演奏する側にはちゃんと耐性がつくんです!」
「楽団員についた所で、客に影響が出ては仕方がありませんが」
「それは……!」
「もう一度聞きますが、『The Deep Dark』のみ曲目から外すことはできないんですか?」
「……ふ、不可能です。あれだけは演奏しなければ……!」
……まだ、話は終わりそうにないな。特にすべきことの無い僕は、例の紙をこっそり取り出して見てみることにした。
一見すると、何の変哲も無い白いメモ用紙だった。念のため二人が熱心に言い争っているのを確認してから、四つ折りにされたそれを広げてみる。
だけどそこに書かれた乱雑な字を読んだ瞬間、僕は息を呑んだ。
『がくだん おかしくなっている
なかとも あやつられている
16時 がくやCでまつ』





