2 割り込んだ音
そして、冒頭のシーンへと戻る。曽根崎さんの言った通り舞台は青いベールで覆われており、演奏している人の姿は影としてでしか判別できなかった。
けれど、僕ら以外の観客は特に疑問に思っていないようである。全体的な曲調が幻想的なことも相まって、演出のひとつと解釈しているのかもしれなかった。
(……事件さえ絡まなかったら、普通の演奏会として楽しめたのになぁ)
つくづくため息ものだが、事前に原因を突き止められなかったのではやむなしだ。よって僕らは現場に赴き、音楽を聴く担当と見張る担当とで分かれ問題の箇所を特定しようとしていた。
とはいえ、こうしてオーケストラを聴く機会なんてそうそう無い。それなりに楽しんでいると、ちょんちょんと肩を叩かれた。
(だいじょうぶか)
隣を見ると、ヘッドホンをつけた曽根崎さんが自分のこめかみを指し口パクで尋ねてきた。「はい」と頷いて返し、僕はまた正面を向く。
が、またツンツンとされる。もう一度見ると、「たいくつ」と雑に書かれた紙が目に入った。
知らんがな。
(し・ら・ん・が・な!)
奴にもしっかり伝わるよう、一音一音口を動かす。しかし奴は意にも介さず、今度は演奏プログラムを取り出して見せてきた。
(……次の曲が、『The Deep Dark』か)
古和イオが、死ぬ間際に完成させた音楽。鞄の中をあさり、演奏に合わせて譜面を追えるよう僕は楽譜を取り出した。
ずらりと居並ぶ黒いおたまじゃくし。音楽経験のある僕ですらクラッとするのに、未経験者の曽根崎さんとなればもっと大変だったろうな。
けれど、もうこの曲は頭に入っている。何度も聴いた今の僕なら、ちゃんと目で追えるはずだ。
そう思っていると、一斉に沸き立った拍手に身が包まれた。曲が終わったのだ。
──いよいよだ。次第に拍手の数が減っていく中、曽根崎さんと視線を合わせて頷いた。
再び静寂が訪れる。時間にしてたった数秒。会場いっぱいに膨れ上がる期待が、最高潮に達したその一瞬。
全身が総毛立った。音を聞くより先に、その曲が持つ何かが僕の細胞に共鳴しているとわかった。まるでずっとこの曲を待ち望んでいたかのような。まるで生まれる前から知っていたかのような。
食い入るように音を見つめる。頭がガンガンする。紙を取り落とす。悲鳴が混じる。血の味がする。
──ああ、呼んでいる。僕は行かなければならない。何故ならこれは神の旋律であり、必然我らもその命に従い楽団に加わらねばならないからである。自らの骨を折り肉を抉りハラワタを千切り、叫び歌い無聊をもてあます神を慰めんことを……。
「!」
突然、思考が途切れた。視界がクリアになっていき、それと同時に自分が床に転がっていることに気がつく。
……頭がズキズキする。何だ? さっき、僕は何を考えていた?
けれど状況を把握する前に、野太い音が僕の鼓膜をつんざいた。
ブォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
──法螺貝が。
それはもう見事な法螺貝が、オーケストラの演奏を尻目に僕の隣で吹き鳴らされていたのである。
「なんで!!?」
周りのお客さんも戸惑っている。当然だ。コンサートの最中、突如ヘッドホンをつけたスーツのもじゃ男が法螺貝を披露したら誰でもそうなるだろう。実際僕も混乱している。
「そ、曽根崎さん! なんで法螺貝なんか吹いてるんですか!?」
「ブォーーーーーーーーーーー」
「曽根崎さん!」
「ブォーーーーーーーーーーー」
「聞けよ! っていうかすげぇ息もつな!」
仕方ないので見守っていると、突如ふらりと曽根崎さんの体が崩れた。慌てて体を支え、近くの椅子に座らせる。
「大丈夫ですか、曽根崎さん!」
「……きみ、こそ……」
「僕は大丈夫ですよ! それよりアンタは……!」
「私は酸欠」
「いっぱい息してください!」
「他の……観客は?」
問われて、辺りを見回す。どの人も法螺貝男に驚きドン引きしてはいるものの、特におかしな行動を取っている人はいなかった。
「……ふむ。演奏も止まったようだな」
そういえばそうみたいだ。あれほど会場を魅了していた楽団は、今や舞台の上で完全に沈黙している。
「では行くぞ、景清君」
「え、行くってどこへ?」
「ステージだ」
見ると、まだ青いベールの向こうには人影が残っていた。そうだ、演奏を聴いただけで僕は正気を失ったのである。だったら、それを演奏していた楽団員達は……!
「わかりました、急ぎましょう!」
「話が早くて助かるよ」
「ですが、その前にこれだけ片付けて……ん?」
手早く散らばった楽譜を集めていた僕の視線は、ふとスマートフォンを操作する曽根崎さんの袖に目が止まった。
「血が出てません? どうしたんです、それ」
「あれ、覚えてないのか? さっき君に噛みつかれたんだよ」
「え!? すいません!」
「いいよ。私もそのまま君を床に引き倒したし」
「あー、それで……」
後頭部をさする。……知らなかった。僕、曽根崎さんを噛んでたのか。ならばあの時、口の中に広がった血の味は曽根崎さんのものだったんだろう。
「私が法螺貝を吹こうとしたのを止めようとしたのか、もしくは腹が減っていただけか……」楽譜を鞄にしまい終わると同時に、曽根崎さんもスマートフォンをスーツの中に入れる。
「ま、考えるのは後でいいか。とにかく噛まれた傷は深くないよ。気にするな」
「ありがとうございます」
「むしろ君の方がヤバいかもな。結構激しく転んでたから」
「労災おります?」
「厳しいと思う」
厳しいのか、そうか。でも仕事が原因の怪我なんだし、後でもう少し粘ってみようと思う。
「行くぞ」
まもなく到着した舞台裏で、曽根崎さんがそう言った。僕が「はい」と返事するのを待ち、彼は薄暗い空間に足を踏み出す。
長い腕が、ステージへと続く幕を躊躇いなく持ち上げた。





