1 The Deep Dark
指揮棒が振り上げられる。次の瞬間、雄壮な音の塊が僕ら観客を丸呑みにした。
楽器から紡ぎ出される繊細ながらも大胆な音色は、まるで一本の糸のようだ。その糸が絡まり合い、完成された一つの大きな音楽として、僕の耳を歓喜させる。
──素晴らしい演奏だ。眼下で響くオーケストラに、僕はすっかり酔いしれていた。
いや、酔いしれたかった。僕は、左側に意識を向けないようにしながら、ただ音楽だけで脳を満たすよう努める。
隣に座るは、本日の同行者である僕の雇用主。
曽根崎さんは、オーケストラには目もくれず、濃いクマを引いた鋭い目でじっと僕を見つめていた。
「オーケストラですか?」
「そう。二人で行ってみないか? ここに都合よくチケットが二枚あるんだ」
二枚の紙切れを指に挟み、僕の雇用主はニヤリと笑った。……なんとも真っ当な、珍しい誘いである。きっと何か裏があるのだろう。
僕はテーブルを拭いていた手を止め、曽根崎さんに尋ねた。
「今回はどういう曽根崎案件なんですか」
「そう決めつけるなよ。まあその通りなんだが」
やっぱりな。ガシガシと頭をかきながら、曽根崎さんの近くまで行く。そしてチケットを一枚奪い取り、その詳細を確認した。
「……古和イオ追悼コンサート?」
「作曲家の女性だよ。二十六歳という若さで全身が総毛立つような凄まじい曲を書き、今後も有望視されていたそうだ」
「追悼ということは、彼女は亡くなられたんですね」
「一ヶ月ほど前にな。心臓発作で死ぬ直前まで、彼女は曲を書き続けていたという。まさに作曲家の鑑だよ」
ピアノを弾くような仕草をする曽根崎さんを無視し、僕は何故そんなコンサートが曰く付きとなったのかを考えていた。今の所、不審な点はどこにも見当たらない。
よって、素直に聞くことにした。
「で、どうしてそれが曽根崎案件になるんです?」
「理由は至ってシンプルだ。このコンサートに参加した観客が、その帰り道に次々と奇怪な行動を取り始めたという。ある者は踊り出し、ある者は高らかに笑い出し、ある者は植木鉢に頭から突っ込んで中の土を貪り出したり」
「うわぁ」
「中には交通事故を起こした者もいる。幸いにして大事には至らなかったが、これは放置しておけないとして私に依頼が来たんだ」
曽根崎さんは、いつも通り淡々とした調子である。確かに、これはそのままにしておいてはいけない。彼に仕事が舞い込むのも頷けるが……。
「いや、演奏会を中止にさせたらそれで終わりじゃないですか?」
「ところがどっこい、依頼内容はあくまで一般人にバレないように解決してくれとのことなんだ。演奏会は明後日に迫っているし、今更中止にするには無理がありすぎる。楽団も、ごく普通の組織で今の所疑う点は無いしな」
「うーん、そうですか」
「ああ、それに」
曽根崎さんは、まるで指揮者のように手を振った。
「演奏会を中止させるには、あまりにも古和イオという作曲家は偉大な存在だった。故に、ここで演奏会を止めた所で、また別の誰かが彼女の曲を紡ぐだろう」
「なら、いっそ彼女の曲を全部破棄するとか」
「芸術には敬意を払えよ、景清君。素晴らしいものには、どう蓋をしたところで神の手が動くんだ」
そういうものだろうか。とにかく曽根崎さんが言うには、問題の箇所を特定してその部分を処理しないといけないらしい。
「で、これらが彼女の作った曲、と」
机の上に散らばる楽譜を見下ろす。その内の一枚を手に取ってみたが、パパッと脳内でメロディーに変換させることはできなかった。
「……結構難しそうですね」
「おや、君に曲の難易度が分かるのかい」
「多少なら。一応元吹奏楽部ですし」
「へぇ」
曽根崎さんは素直に驚いたようである。
「担当楽器は?」
「クラリネットです」
「あのなんか黒い棒か」
「その概念でいくとリコーダーもシャーペンの芯も一緒になりますがね。そうですよ」
「人は見かけによらないもんだ」
「逆に元吹奏楽部っぽい見かけって何ですかね……」
「しかし助かったよ。それなら君、楽譜を読めるんだろ? ちょっと手伝え。こことかどんなメロディーになるのか教えろ」
ぐいと肩を掴まれ机に寄せられる。その手を払い落としつつ、僕も楽譜に目を落とした。
「それぐらいなら全然やりますけど……。逆に曽根崎さんは楽譜を読めないんですね」
「読めない。だから、曲を聴いて該当するだろう部分を目で追ってる」
「あ、コピーされた曲を聴く分には大丈夫なんですか」
てっきり、聴いた者が無差別にトチ狂う呪いの曲なのかと思っていた。それならば、演奏の仕方が鍵なのだろうか。
それについて問いかけると、曽根崎さんは無表情に首を傾けた。
「それが、演奏者の姿は見えないらしいんだ」
「え? そんなことってあるんですか?」
疑問に顔を歪める僕に、彼は言葉を足してくれる。
「舞台は薄いベールで覆われているらしい。演奏しているらしい人間の影は見えるが、それが何者かまでは分からないとこういうことだ」
「あっやしい……!」
「怪しいだろ。だが、引っぺがしたいなら演奏後にしてくれよ。とりあえず事が起こるまでは、演奏を続けてもらわなきゃならない」
「嫌ですよ。引っぺがしてオバケとかが出てきたらどうするんです」
「私は幽霊に関しては専門外だからな。とりあえず無礼を詫びるところから始めてみる」
「オバケに対して距離詰めようとする人初めて見た」
やはり、変な人である。
適当な椅子を引っ張ってきて曽根崎さんの隣に腰を下ろす僕の前に、彼は楽譜をかき集めてきた。
「これで全部だ」
「一通り読んでけってか」
「私は読めないからな。頼むよ」
「えー」
こんなに量があると知っていたら、安請け合いしなかったのに。少し面倒になったけど、協力すると言ったからには反故にもできない。諦めた僕は、ため息混じりに楽譜の束をまとめトントンと端を揃えた。
「で、こんな恐ろしい曲ができた原因に心当たりはあるんですか?」
「あるよ。一つだけね」
答えを期待した質問ではなかったのだが、少しだけトーンが低くなった曽根崎さんの声に緊張する。そんな僕の様子を知ってか知らずか、彼は静かに言葉を継いだ。
「さっき私は、彼女は死ぬ直前まで作曲を続けていたと言ったな」
「ええ」
「もし、それが逆だったとしたら?」
「……逆?」
「そうだ」
曽根崎さんは、大量の紙束の中から『The Deep Dark』と銘打たれた楽譜を指す。それは、古和イオ最後の作品だった。
長い指が、艶かしい動きで五線譜をなぞっていく。
「要するに、この曲を作ったからこそ、彼女は死んでしまった」
何の変哲も無い譜面だ。しかしこの男が触れてしまえば、そこから真っ黒に色を変えていくような錯覚を抱いてしまう。僕は息を詰めて、彼の言葉を待っていた。
「──天才とは、時として人類が無意識に忌避していた扉に、手をかけてしまうものなのかもしれないぞ」
おどろおどろしく僕を脅してきた彼の顔も、恐怖に引きつった笑みを浮かべていたのである。





