5 テーブル席にて
僕はつい阿蘇さんのほうを振り返ろうとして、すんでのところで思いとどまった。代わりに装着しているイヤホンのつまみを操作する。すると、まるですぐそばで話しているかのようにぽこさんの声が鮮明になった。実はこのイヤホン、阿蘇さんに取り付けた盗聴器から音を聞ける小型機器なのだ!
……盗み聞きすることへの罪悪感はあるが、藤田さんが止まらなかったので仕方ない。決して僕の本意ではない。バレたらどうしよう。
どうやって藤田さんに罪をなすりつけようかと考えていたら、阿蘇さんの声が聞こえてきた。
「はい。ああいうアプリに登録しておいて申し訳ありませんが、俺は誰ともお付き合いするつもりはありません」
きっぱりとした言葉に、ぽこさんは少し沈黙した。だけど、これしきでめげる人ではなかったらしい。
「でも、今日私と過ごしていかがでした? 私、タダスケさんが楽しんでくれたとものばかり思っていたんですよ」
「楽しかったですよ。ただ、俺の気持ちは変わらないというだけです。最初に確認しましたよね? 俺とぽこさんとお会いするのは出会い目的じゃないと」
「だけど、タダスケさんもおっしゃるとおり、あなたが登録していたのはマッチングアプリなんです。少しは期待するでしょう」彼女の声には、僅かな悲しみと敗北感のようなものが感じられた。「今日だけで結論を出さなくても構いません。私、待てます。何度かデートを重ねてから答えを出したっていいじゃないですか」
「ですから、俺にはそうできない事情があるんです」
「事情って?」
「それは……あまり話したくないです」
「……」
再び、二人の間に沈黙が落ちる。僕はもうずっとハラハラして、注文していたホットミルク(一番安かった)の熱さも忘れて口をつけたぐらいだった。舌先は火傷した。
「はっきり言います」口火を切ったのは、やっぱりぽこさんだった。「私、今日のデートを通してタダスケさんに好意を抱きました。ちゃんとフッてもらえないと諦めきれません。私がだめだったんならハッキリ言ってください。下手な嘘をつかれたならますます傷つきます」
「だから、あなたに非がある話じゃありません」
「じゃあなんですか? 私は大丈夫ですから、その事情を教えてくださいよ。そうでないと私は次に進めないんです」
「……はあ」
修羅場だ。大人の温度感の修羅場だ。すっかり困り果てている阿蘇さんの様子がイヤホン越しにひしひしと伝わってきて、助けられるならそうしたかったけれど、残念ながら現状盗聴犯のストーカー野郎である僕にできることは何一つなかった。
だけど、ここまで聞いて一つ確かなことがある。阿蘇さんは、出会い目的でマッチングアプリを使っていなかった。藤田さんにとっては朗報だけど、そもそもどうして阿蘇さんはそんなアプリに登録していたんだろう?
首を捻っていると、ついに折れたらしい阿蘇さんがぶっきらぼうに話し始めた。
「確かに、マッチングアプリを利用しておきながら俺の対応は不誠実でしたね。……わかりました。うまく伝えられるかは保証しませんが、俺の事情についてざっと話そうと思います」
「ありがとうございます」
「いえ。……結論から入りますが、今の俺にはどうしても切り捨てられないやつがいるんです」
「切り捨てられない人?」ぽこさんは不思議そうに尋ねた。「恋人未満みたいな?」
「いや、恋人未満も何も……あー、説明が面倒ですね。もうその認識でいいです。話が早いんで」
いいのか、阿蘇さん? 誰について話しているのか僕にはなんとなく察しがついているのだけど、今かなり重要な前提をアバウトにしなかったか?
「とにかく、そういうやつがいます」僕の心配をよそに阿蘇さんは押し切った。「だから俺は、そいつをどうにかできるまで自分の人生を大きく変えるつもりがないんです」
「どうにかって……つまり、その人に恋人ができるまで、阿蘇さんも恋人を作らないってことですか?」
「まあ、概ねそうですね。恋人に限らずとも、そいつが俺を必要としなくなったらってとこですが」
「でもそれって自意識過剰じゃないですか?」ぽこさんが鋭く切り込んだ。「でなきゃ過保護です。恋人未満ってことは、タダスケさんはその人の恋人じゃないんでしょう?」
「ですね」
「じゃあ距離感がおかしいですよ。その人にはその人の人生が勝手にあって、それはタダスケさんも同じです。恋人になったり結婚する気がないんだったら、互いに手放すのが自然じゃないですか?」
なんだこれ……! 胸が……胸が痛い……!!
ぽこさんの言葉は、阿蘇さんを通り越して僕に大きなダメージを与えていた。もし僕が同じことを正面からぽこさんに突きつけられたら、餌を求める鯉のように口をぱくぱくさせるしかなかっただろう。それほどまでに、彼女の言葉は強かったのだ。
だけど阿蘇さんは、こんな問いかけにもいとも簡単に返したのである。
「仕方ないんですよ」
それはどこか、自嘲的な色が混ざった声。
「そいつが笑って生きてくれないと、俺もまともに生きられないんです」
「は……!?」
ぽこさんから素っ頓狂な声が出た。きっと口はあんぐりと開き、目は白黒していることだろう。かく言う僕も同じ顔になっている。
もちろんぽこさんは更なる追求をしたかったことだろう。しかしそれは呆気なく阻まれてしまった。
「いやー、ごめんごめん! ちょっと思いのほか大物でさー、めっちゃ時間かかっちゃった!」
朗らかに爽やかに、藤田さんが現れたのである。
――なぜか、阿蘇さんたちのテーブルの前に。
「……あれ?」
藤田さんは端正な顔を阿蘇さんに向け、ぽこさんに向け、それから僕に向けた。やめろ、最後の視線は余計だろ。
じわじわと藤田さんの顔色が青くなる。それでも笑顔を絶やさなかったのはさすがと言えるだろうか。
「……すみません、間違えました」
逃げようとした藤田さんだったが、駄目だった。一瞬で阿蘇さんに首根っこを掴まれてしまった。それで僕も観念し、伝票とすっかりぬるくなったミルクを持って席を移る覚悟を決めたのである。





