1 身内だらけの身辺調査隊、結成
「人類の選別です」
凛とした女性の声が頭の中で響く。振り返ると、品之丞先生が静かな微笑を浮かべて立っていた。
「私はある基準に従い、この星に下等人類の死体の山を積み上げようと考えています。審判を越えた人類のみで、理想郷を築き上げるのです」
それは間違っていると言おうとした。だけど、僕の喉の奥に誰かが手を入れていて声が出せない。真っ黒な腕が僕の口の中に入り込んでいるのだ。
それでもどうにか叫ぼうとしたのである。だけど僕の口から出てきたのは、僕のものではない、淀んだ男の声だった。
「でもそれも、せいしんがそろう日までのことなんだよなぁ」
「ひっ!」
勢いよく飛び起きた。遅れて、全力疾走した直後のような動悸と激しい呼吸が僕を襲う。……朝だ。日が差し込む壁を凝視しながら、僕はひとつひとつ自分を確かめて現実に焦点を合わせ始めた。
ここは、曽根崎さんちのベッドの上だ。さっきまでの光景は単なる夢で、今こそが現実……いや、夢というよりは記憶の寄せ集めというべきだろうか。品之丞先生の言葉も重元さんの呟きも、実際に僕が聞いたものだからだ。
でも、記憶が直接僕を害することはない。今感じているのは先を見通せないがゆえの不安で、しかも結局すぐに対処できるものではない。そう言い聞かせながら、僕は大きく深呼吸をして時計を見た。
時刻は9時を回っていた。
嘘だろ、講義始まってんじゃん。
「曽根崎さんー!」
八つ当たりに近い叫びを発しながら、リビングに飛び出す。曽根崎さんはいなかった。きっととっくに事務所に向かったのだろう。爆睡する僕を放置して。
いつか、曽根崎さんより早く起きる日があったら今度は僕がアイツを置いていってやる。相当先になりそうな未来を想像しながら、僕はカバンを手に取ったのだった。
そういう事情で、今日事務所に来た時の僕は若干不機嫌だったのである。だが曽根崎の野郎が気に留めるはずもなく……。
「味噌汁」
コイツはもう。
おそらく、朝食も昼食も食べていないのだろう。生活能力の薄い三十路には困ったものである。僕は荷物を所定の場所に置きながら、エプロンを手に取った。
「ごはん食べたいんだったら僕を起こしてくださいよ。作りますから」
「雇用者として、日常的に時間外労働をさせるわけにはいかんだろ」
「そんな。ちゃんと分単位で申請しますよ」
「隙を見せたらすぐ私から金を搾り取ろうとする……」
「おにぎりも作りましょうか。具は何がいいですか?」
「なんでもいいよ。どうせ味噌汁に突っ込むから」
「マジでやめてください」
信じられない言葉を背後に、僕はキッチンへと引っ込む。そうして鍋に火をかけて5分後。事務所のドアが開く音がした。
最初は曽根崎さんが出ていったのかと思ったのだ。しかし曽根崎さんの鬱陶しそうな声が、その音が訪問客のものであることを露骨に示していた。
誰だろう。僕は鍋にかけていた火を止め、そっと事務所を覗いてみた。
「――深刻な問題なんです」
聞こえてきたのは、男性の沈痛な声。端正な顔立ちのその人は、いつもは明るく卑猥に輝く目を伏せて、曽根崎さんに言った。
「そりゃ今までもそういう話がないわけじゃなかった。だけど今回はわけが違うんです。だって、自分から望んでコンタクトを取ってるんですよ?」
「別にいいだろ。本人の自由だ」
「何か事件の匂いがする……そう思いませんか?」
「思わな」
「思ーう!」
「私の意思を遮るな」
藤田直和である。この人が事務所を訪ねてくる場合、信じられないぐらい深刻なケースと引くほどくだらねぇケースの両極端であるパターンが多い。今回はどちらだろう。後者かな。
考えていると、業を煮やした藤田さんがダンとテーブルに拳を叩きつけた。
「だからぁ! 阿蘇が婚活サイトでマッチングして会いに行くって言うんですよ!? これが事件じゃなくて何だって言うんですか!!」
後者だった。本人の自由にも程があるだろ。
曽根崎さんもこれ以上話を聞くつもりはなさそうだ。目が死んでいる。大変だなぁと思いつつキッチンへと戻ろうとしたら、低い声が飛んできた。
「景清君。押し売り客が来た。適当に窓から帰ってもらってくれ」
「あ、景清いるの!? 景清イズマイラブ! かわいいかわいいお顔見せて! んでもってオレに賛同して!」
見つかってしまった。だけど、藤田さんが訴える内容に興味を引かれたのも事実である。僕はそっとキッチンから出てくると、藤田さんの向かいに座った。
「おい」当然曽根崎さんはいい顔をしなかったが、僕は気にせず藤田さんに尋ねる。
「阿蘇さんがついに結婚するって本当ですか?」
「しないよ。するわけない」
「でも婚活してたんでしょ?」
「世間の目を欺くためにな」
「何のためにですか。とにかく、10年以上友達やってた人が結婚するかもって話なんですよね? じゃあやることはひとつ、心から祝福するってもんじゃないんですか?」
「でも20年来の幼馴染が女に騙されてるって知ったら……?」
「何を根拠に言ってるんですか。そんでしれっと訂正した部分に高湿度の執着が見えて嫌だなぁ」
埒が明かない。だけど、阿蘇さんと藤田さんに関わる中で見えてきた二人ののっぴきならない事情を考えると、藤田さんのこの反応もむべなるかなと思ったりもするのだ。
僕は、おそるおそる曽根崎さんに目をやった。
「……思うんですが」
「なんだ」
「大事な人が結婚する時に、探偵を雇って相手の素性を調べるってこともありますよね?」
「まあ、あるだろうな」
「藤田さんの件はそれだと考えてみませんか? 身辺調査っていうんでしたっけ。探偵業として引き受けるんです」
「……はあー……」
曽根崎さんは鬱陶しそうにぼさぼさの髪を掻いた。が、多少その気になったらしい。藤田さんに向き直ると、面倒くさそうに尋ねた。
「いくらまで出せる?」
「先日家を漁っていたら景清が赤ちゃんだった時の写真が出てきました。年賀状ですが、いかがですか」
「え、僕の!? いやいや、そんなもんで曽根崎さんが動くわけが」
「時間の許す限り調べてみよう」
「なんでだよ」
ついツッコんでしまったが、曽根崎さんがこちら側につけば百人力である。ちゃんとした相手だとわかれば、藤田さんも引き下がらざるをえないだろう。それに、僕としても阿蘇さんの未来の奥さんがどんな人か気になるところだったのだ。
こうして、身内だらけの身辺調査隊が結成されたのである。
【おまけ】
景清「でも、なんで僕の写真が入った年賀状が藤田さんの手元にあったんですか?」
藤田「お前のパパ、性格はゲロカスだったけど外面はよかったろ。会社の人宛に〝赤ちゃんが生まれました〟って年賀状を出そうとしていたのを、当時おちびだったオレがこっそり一枚拝借したんだ」
景清「そうだったんですか……」
藤田「なので曽根崎さんにはコピーをお渡ししますね」
曽根崎「原本をよこせ」





