番外編 ゆけゆけ!曽根崎こども園!5
「お子さんを、ですか?」
相手を刺激しないよう恐る恐る尋ねる。もちろんここは土足厳禁で、玄関で靴を脱ぐことになっている。僕はおそるおそる裏口に視線をやった。
彼女越しに見た裏口は、ドアノブごと壊されていた。
「失礼ですが、お名前をおうかがいしても?」僕はじりじりとトイレに近づきながら言った。
「ハヤカワです」女性は平たい口調で答えた。「ハヤカワ、マモルです」
「なるほど。先ほど、お迎えに来られたとおっしゃっていましたね。事前にご連絡をいただいていないのですが、急用が入ったのですか?」
「いいから。早くマモルを渡して」
女性の声にイライラとした熱がこもる。
「もしかしてあんたもアイツらと同じ? 母親とこどもは心が繋がっているから、母親からこどもを連れ去るのは犯罪なのよ? それにあたし知ってるんだから! 児相と行政機関はグルで、あんたらにはこども連れ去りノルマがあるって!」
「なんの話!?」
「大体虐待って何!? うちの子は生まれつき頭に障害があるから、間違った道を歩もうとしていたら叩いて直さなきゃいけないのは当然でしょ!? 私だって叩かれて育ったからちゃんとした大人になれたのに、なんで現代のこどもには適用されないのよ! 不公平じゃない!」
この時点で僕の体は凍りついていた。突然現れた彼女の言い分は僕の両親を彷彿とさせた。何か言い返そうと口を開くけれど、言葉の残りカスみたいな音が出てくるばかりでどうにもならない。
「ひっ」その時、僕の後ろから小さな悲鳴が聞こえた。トイレから出た男の子が、恐怖に目を見開いて女性を見ていたのだ。
「あ、きみ……」
「マモル!!」女性の声と僕が突き飛ばされたのは同時だった。「マモル! マモル! お母さんと帰るよ! おばあちゃんもおじいちゃんもいる! あの悪魔とは二度と会わせないから!」
女性は男の子の細い腕をがっしりと掴んでいた。ところどころネイルが剥げた爪が手首に食い込んでいるのに、男の子は逃げようともしていない。見れば、小刻みに震えていた。
「この……!」そんな男の子の姿を見た瞬間、僕の体は勝手に動いていたのだ。
「やめてください!」
「ぎゃっ!?」
女性の右足を掴み、後ろに引っ張る。にわかにバランスを崩した女性は、転びこそしなかったものの男の子を掴む手を緩ませた。その隙を僕は逃さなかった。僕は男の子の手を引いて、室内に向かって走り出した。
だけどすぐにぐんと後ろに重さを感じる。男の子の足は強張っていて、全く動いていなかった。
「……ごめんね!」でも迷っている時間はないのだ。僕は男の子を抱き上げると、再び走り出した。
「待ちなさい! 犯罪者! 誘拐犯!!」女性の金切り声が追いかけてくる。「あんたらには必ず罰が下るわ! 神のいかずちによって裁きをくだされ、次の人類には選ばれない!」
呪詛を聞き流して走る。ふとこっちに逃げたら他のこどもも危ないんじゃないかと思ったが、もう別の行動を取るわけにもいかない。何より他の大人に今の状況も伝える必要もある。ええい、ままよ! 僕はこども達が集まっている部屋のドアを開けた。
そこで見た光景は衝撃的なものだった。散らばった窓ガラスと、ゲンマさんに取りすがって怯えて小さくなるこども達。泣きじゃくる声。部屋の中央には、女の子の首にカッターナイフを押し当てて凄む男の姿があった。
男は、僕が公民館の前で見た人とは別人だった。
「あ? なんだお前……!」
しかし僕の登場は、男を一瞬戸惑わせるのに十分だったらしい。そしてその一瞬のうちに阿蘇さんが男の懐に入り込んだ。
鋭いアッパーカットが男の顎に炸裂する。男は短いうめき声をあげたあと、仰向けにどうと倒れて動かなくなった。
「よーし、ナイスタイミングだ、景清君!」阿蘇さんが僕に言う。そんな彼の言葉で僕は男の子――マモル君に迫る危険についてやっと思い出した。
勢いよく背後のドアを閉める。全速力でこちらに向かってきていた女性の顔面が、ドアにぶつかってぺしゃんこになる音がした。でもこれで終わったわけじゃない。今のうちに彼女も取り押さえないと……!
「阿蘇さん! こっちにも一人います! 応援お願いします!」
「クソッ、複数犯かよ! ゲンマ、景清君のほう頼んだ!」
ゲンマさんは頷きかけたが、彼の周りにいるこどもたちを見下ろしたあととても眉を八の字にした。すっかり怯えてしまったこども達から今離れるのは、気が咎めるのだろう。
「わかりました。ゲンマさんはこども達を守ってください」僕はゲンマさんに助け舟を出した。「きみ……マモル君も、ゲンマさんのところに行って待ってて」
マモル君は大きな目で僕を見上げた。それからゲンマさんを見て、ドアに視線を移す。彼の目には、ドア越しに母親の姿があるのだろうか。
今のマモル君の気持ちがなんとなくわかる気がした。そしていずれその気持ちは摩耗し、疲れ果ててしまう日が来ることも。
「大丈夫だよ」不毛な感情を振り切り、マモル君に言う。「ちょっとお母さんと話してくるだけだから」
だが、何を話すというのだろう。そもそもあんな状態の人と会話できるのだろうか。無計画この上ない僕だったが、それでも大人はこどもを守るものだと今の僕は知っている。僕が親指を立てたのを見たマモル君は、頷いてゲンマさんのもとへ走っていった。
さあ、僕はドアを開けねばならない。汗ばむ手を一度握り、つばを飲み込む。そういえば、さっきからドアの向こうが静かだ。まさかぶつかった衝撃で気絶しているのだろうか?
慎重にドアを開ける。ぼそぼそとした声が聞こえる。僕の目に飛び込んできたのは、後ろ手で押さえてうつぶせにした女性の背にのしかかる、黒尽くめの男の姿だった。
「……それじゃ次の質問」男は淡々と尋ねる。「君たちは、〝こどもの希望を守り続ける会〟から我が子を取り戻すべく結成した者で間違いないな?」
「何してんですか、曽根崎さん!」
ちょっと目を離すとこうである。でも無力化してくれたのはありがたいので、そのまま速やかに警察に通報したのだった。





