番外編 ゆけゆけ!曽根崎こども園!4
「あの……」
おずおずと男の子に声をかけられる。僕が宿題を手伝った子だ。いや、結局内容は全部自分で解いていたから、手伝ったとは言えないかもしてない。
「ぼく……かげきよさんとおやつ、たべたい。いい?」
「え、いいの?」男の子の思わぬ申し出に嬉しくなる。「食べよう食べよう! 席どこにする? ここにしよっか!」
僕ががたがたと椅子を持ってくると、男の子は嬉しそうに隣に腰を下ろした。彼が持っているのは、他の子より小さめの蒸しパンだ。「僕のを分けようか?」と言いかけて、自分がまだ手を洗っていなかったことを思い出した。
「先に食べてていいよ。僕、手を綺麗にしてこなきゃ」
「わかった」
男の子は、僕の分までコップにお茶を注ごうとしてくれていた。あんまりあの子を待たせてはいけない。だけど、手を洗いに行く前に曽根崎さんに声をかけておかねば。
靴をはいて一旦外に出る。途端に煙たい匂いに顔をしかめた。マジでタバコ吸ってたのかよ、この人。
「おや、景清君。離れていなさい。君はタバコが苦手だろう」僕に気づいた曽根崎さんがいけしゃあしゃあと言う。「連れ戻しに来たんですよ」煙を手でぱたぱたと払いのけながら僕は吐き捨てた。「ほら、タバコ消して。部屋に戻っておやつにしましょう」
「そういうわけにもいかん。私はここで門番だ」
「門番?」突拍子もない発言に僕は眉をひそめた。「なんですか、それ。どういう意味です?」
「あれを見ろ」曽根崎さんに言われて、僕は彼が顎でしゃくってみせた方向に目を向けた。一人の男性がこちらを見ている。一見普通の人だが、その視線にはどこかねっとりとした湿度があった。
「……知り合いですか?」
「まさか」
「じゃあ誰です?」
「社会不適合者」
あんまりな決めつけだ。しかし曽根崎さんの横顔は大真面目である。
「歪んだ正義感や使命感……根拠のない思い込みに駆られて、虚しい自らを満たすべく弱者を慰み者にしようとする者がいる」
「もっと率直にお願いします」
「あの男は危険だ。ここの子供に危害を加えようと考えている可能性が高い」
「え!? なんでそんなことがわかるんですか!?」
「少々色々あってな」
「少々色々!?」
「あとで説明するよ」
「とにかくえらいことじゃないですか! 早く警察に連絡を……警察いたわ、中に。僕、阿蘇さんを呼んできます!」
「落ち着け。まだ彼は何もしていないだろう」
「いやでも襲撃してきたら……」
「そうならないよう、私がここに立ってるんだ」
曽根崎さんが持っているタバコの先から灰が落ちる。本人もそれに気づいたのか、僕の目の前でシガレットケースにタバコを押し込んだ。
「私の風貌はかなり不審者のそれに近く、また上背もある。これでタバコを吸っていようものなら、並大抵の者なら不気味がって近づきもしない」
「自分で言ってて悲しくなりませんか」
「全然。まあそういうわけだ。私がここに立つことで防犯になり何も起こらないのなら、それに越したことはないだろう」
「うーん……」
腑に落ちたような、そうでないような。僕はまたそれとなく男の姿を視界に収める。男はあたりを見回したあと、肩を丸めてスマートフォンをいじりながら去っていった。小さく息を吐く。僕も知らず知らずのうちに緊張していたようだ。
「それより、今はおやつの時間なんだろう?」曽根崎さんは新しいタバコを取り出した。「君は戻るといい。私はもう少し睨みをきかせてから帰るから」
「わ、わかりました」
後ろ髪を引かれる思いはあったが、僕もあまり長居はできない。男が消えた角に誰もいないことを確かめて、僕はこども園へと戻った。
手を洗って部屋に帰ると、おやつを食べ終え遊び回る子が多い中、男の子は一切お皿のものに手をつけずに待っていた。僕を見上げてほっとしたように笑う。ずっと待っていてくれたのか。
謝りながら男の子の隣に座り、二人で「いただきます」と手を合わせる。優しい甘さが口に広がるのを楽しみながら、僕は男の子と二人でなんでもない話をしたのだった。
自分がまだ男の子の名前を聞いていなかったと気づいたのは、おやつが終わってからのことである。
「ねえ」男の子に話しかけると、彼はきょとんとした顔で僕を見上げた。「君の名前は……」
しかし尋ねる前に、男の子はもぞもぞし始めた。
「といれ」
トイレか。それはのっぴきならない生理現象だ。確か裏口近くにあったはずである。行っておいでと言いかけたが、男の子に服の裾を掴まれて飲み込んだ。
「ついてきて……」
心細そうな声だった。確かにこのこども園は古い公民館を間借りしているので、トイレが旧式で薄暗い。この年齢の子だと怖いと感じるのも無理はないだろう。
「もちろん! 嬉しいな、ちょうど僕も催してきたところだったんだ。一緒に行こう!」男の子が変に気を遣わないようにそう返したのだけど、連れ立ってトイレに行くのを喜ぶ人になってしまった。なんで僕はいつもこうなんだ。
一応阿蘇さんにもひと声かけてから向かう。念の為曽根崎さんの姿も探したが、まだ門番をしているのか室内には見当たらなかった。
トイレの前で男の子を待ちながら、こども園の前に立っていた男性の目つきを思い出す。あの人はどういうつもりであそこに立って、何を考えていたのだろう。
そんな思考に夢中になっていた僕は、近づいてくる影に気づかなかった。
「すみません」
女性の声に振り返る。そこに立っていたのは、見知らぬ人だった。だけど違和感がある。
「うちの子を、迎えに来たんですが」
その違和感の正体はすぐにわかった。女性は、靴をはいたままだったのだ。





