45 少しだけ違う日常を
僕がウィタ研究所を訪れてから数日経った。田中さんはすぐに声明を出してツクヨミ財団と重元さんの氏は無関係だと表明したけれど、一度ついた火は消えず、世論ではいまだに根強い不信感が残っているようだ。
治郁さんから情報を聞き出せたという話も聞かず、曽根崎さんのマンションの下にいたメガネの女性の正体も結局わからずじまい。重元さんの死は不幸な事故として処理され、地下室に閉じ込めていたはずの弁爾さんは白衣の集団と共に行方不明になっていた。
まだそこかしこに謎が残っているのに、日常だけが何食わぬ顔をして僕の前に戻ってきた。当たり前にベッドで目を覚まして、曽根崎さんと朝ご飯を食べて、大学に行き、曽根崎さんの事務所でアルバイトをする。そんな毎日が――。
いや、僕いつまで曽根崎さんのマンションに住んでるんだ?
「でも不便は感じてないんだろ?」
これは三条の言葉である。大学構内の食堂で、三条は大盛りスパゲッティをお箸ですくいながら僕の他愛のない相談を華麗に受け流していた。
「好きなだけいたら? 曽根崎さんからも出ていけって言われてないんだし」
「けど人としてどうだよって思わない? 今の僕、家賃も水道代も光熱費も払ってないんだよ」
「その分、家事とかしてるんだろ? 住み込みのお手伝いさんみたいなもんだろー。気にすんな気にすんな」
そんなにあっさりと割り切れるなら、こうして悩んでいないのだ。だけど、引越し費用などを考える段階になると、途端にぐずぐずと曽根崎さんのマンションに居続けてもいい理由を考え始めてしまう。僕はだめなやつだ。
もそもそと大豆の煮物を口に運ぶ。ふと、窓の外がやけに騒がしいことに気づいた。
「最近過激になってるよなー。学生運動だっけ? あ、違うわ。今は人間運動って言うのか」
「人間運動? 何それ」
三条の発言に食いつく。三条はフォークをぶらぶらとさせながら教えてくれた。
「なんだっけな。自分が人間らしく生きるために、社会や政治のあり方に声をあげてるんだって。学生運動は学生が主体だったけど、こっちは色んな世代の人が参加してるから人間運動って呼んでるみたい。オレもゼミの人に誘われたよ。オレの思想と合わないから断ったけど」
おもむろに三条が自分のカバンを漁り始める。「あった」と言って僕に差し出したのは、一枚のパンフレットだ。
ピンク色の用紙に、人間運動への参加を呼びかける文章が印刷されている。内容にざっと目を通す。消費税の撤廃、最低賃金の大幅な引き上げ、法改正の反対……このあたりは実現可能云々は抜きにして、理解できる。だが、中には目を疑うような内容もあった。
「児童福祉及び医療福祉関係の補助金の撤廃? こども育てる時も病気になった時も、全部自分のお金で何とかしろってこと?」
「それだけじゃない。病院や介護福祉施設、義務教育機関ごとなくすべきだって主張してるんだ。病人も怪我人も障害者も老人もこどもも、全て健常者同様に扱われるべきだって」
「えええ、極端だね? 何が人間運動だよ。重元さんみたいなこと言ってんな」
「重元って、この間死んだ政治家の? 景清、政治に詳しいね。でもこっちの人間運動はちょっと毛色が違うっぽいんだよな」
三条が苦しそうな顔をした。スパゲッティはもう減っていなかった。
「人間運動に参加してる人って、むしろ医療を必要としている人やその家族が多いんだ」
「そうなの?」
「うん。パンフレットには書かれていないんだけどさ、人間運動に参加してる人は、まもなく病気も怪我も老いもない世界が待ってるって話を信じてるらしい」
「え?」
寝耳に水の論だった。だけど思い出したのは、品之丞先生が言っていた選別された人々のこと。曽根崎さんが教えてくれた進化した人類のことだ。
……もしかして、品之丞先生や彼女の仲間が、進化した人類についての話を秘密裏に広めている?
三条は、僕の様子に気づかず続ける。
「それで病気のこどもを持つ親御さんとか、怪我をしてスポーツに復帰できない人とかが一縷の望みにかけて参加してるんだよ。中には、医者や政治家、教師とかが利益を享受したいせいでわざと病気を作ったり、こどもって概念を押しつけてるって思ってる人もいるな。だからそういうものを全部壊したら、自分たちが望む手段を政府が出さざるをえなくなるって考えてるんだ」
「待って待って。いきなり話が飛躍してない?」
「でも切羽詰まってたら藁にもすがる思いにもなるだろー。教師目指してるオレとしては複雑だけどさ」
「心広いな、三条……」
「まだ少数派だからそう思えるのかもね。今関わりがないならあんまり気にならないや。でも、もしいつか関わることがあっても、問題は人間運動じゃなくてその人個人にあるんだから、その人を見て話すことができたらいいって思うな」
「……」
「なに?」
「三条がちゃんとしたことを話してるのを聞くと、胸があったかくなる」
「バカにしてるだろ」
「してないよ」
そう、実際僕は安堵していた。自分で組み立てた常識が揺らぎそうになる時、同じ意見を持つ人の話を聞くとホッとする。だけどこれは人間運動とやらに参加する人たちだって、同じことを思っているのだろう。
僕が今いる日常は、昨日とは違う日常だ。明日はもっと変化があって、もっと不安に苛まれるのかもしれない。
それでも僕は、大切だと思うものを考えながら選び取っていくしかないのだ。
「あ、景清。お迎えがきたぜ」
三条がスパゲッティの最後の一巻きを食べながら言う。同時に、にわかに食堂の入口が騒がしくなってきた。激しいデジャヴだ。僕はこの光景を知っている。
おそるおそる入口に目をやる。それはそれはでっかい異国のお兄さんが、ドア枠におでこをくっつけた状態で僕を見ていた。
「ゲンマさん!」
その後ろから、彼ほどではないにしろ長身のスーツもじゃ髪まっくろ男が現れた。
「曽根崎さん!」
なお、後者は予想外である。僕は席から立ち上がると、ずかずか曽根崎さんのもとに向かった。
「なんでここに来ちゃったんですか! 今日まだ講義があるのに!」
「品之丞氏が彼を寄越してきてな」曽根崎さんは親指でゲンマさんを指した。「私では持て余すので君に預けようと思って」
「困りますよ! ゲンマさんも僕も!」
「だが彼のほうは興味津々のようだが」
曽根崎さんの言葉はそのとおりで、ゲンマさんは興味深げに周囲を見回していた。一応僕の送迎で何度か大学に来ていたはずだけど、未だに目新しいらしい。
「っていうか、品之丞先生とあんなやり取りをしといてまだ懇意にしてるんですか?」声を抑えて曽根崎さんに尋ねる。「僕もうどうやって品之丞先生と話していいかわかりませんよ」
「私が一方的に敵視しているだけで、表立って敵対関係にあるわけではないんだ。君は気楽にしていればいい」
「無茶言う」
「それに、個人的に〝彼〟とは友好関係でありたいと思ってな」
意外な発言に曽根崎さんを見上げる。……嘘を言っている顔ではない。でも、なぜかはわからないが胸のあたりがざわついた。
「……な、仲良くなりたいと思ってるなら、名前で呼んであげたらいいんじゃないですか?」
咄嗟に取り繕う。一方曽根崎さんは腕組みをして天を仰いだ。
「うーん」
「なんでそこは渋るんだよ」
「とにかく彼は任せたぞ。彼も君に会いたがっていたようだし」
「頑なに名前呼ばねぇな」
「それに、こういうことは私より景清君が適任だろ」
ふいに曽根崎さんから出た僕の名前にドキッとした。何か言ってやろうと口を開いたけれど、思い直してやめる。……まあ、次の講義まで一時間以上あるのだ。その間、ゲンマさんを連れて大学の敷地内を散歩するのもいいかもしれない。
いや、その前に――
「ゲンマさん、とりあえずご飯にしませんか?」
「!」
ゲンマさんに話しかけると、パッと表情を明るくしてくれた。曽根崎さんには遠慮していたようだが、お腹が空いていたらしい。
「わかりました。だったら食堂で何か食べましょう。あ、僕の友達も紹介させてください。すごくいいやつなんです」
ゲンマさんはうんうんと頷くと、やっぱりキョロキョロしながら僕のあとをついてきた。まだテーブルにいた三条は、僕らを見て目を丸くしてくる。その反応がおかしくて、僕はつい笑ってしまった。
そういえば、曽根崎さんはちゃんと食事をしたのだろうか。これもあとで確認しておかないといけない。
昨日とは少しだけ違う日常に向き合い、紡いでいくことを決意する。たとえ水面下で何が這い寄ろうとしていても、僕は明日も日常を送るのだ。
第9章 破滅は弱者の顔をして 完





