40 決裂、そのあとも
「悪とは何でしょう」
品之丞先生は続ける。
「私はそれを、悪意をもって人を虐げ傷つける存在だと定義しています。ならば正義とは何でしょう。私が思うに、それは無辜の人々を悪から遠ざけ、安寧の日々を守ること。とどのつまり、正義の行使とは悪の排除なのです」
「そこは別に否定しやしないけどさ」田中さんの渋いバリトンボイスが割り込んだ。「だからってその悪人をどう定義するんだい。善悪の基準なんて状況如何であっさり反転する。前科者が誰よりも優しいボランティアになることもあれば、虫一匹殺せないと言われた人が親を滅多刺しにすることだってある。人はそう単純じゃない」
「では、悪人の基準を明確に定めることができるなら、あなたは賛同してくださるのでしょうか」品之丞先生の目が細くなる。「あなたは正義を掲げるツクヨミ財団の理事長ですもの。悪人を一斉排除できるなら、そうすべきなのでは?」
この品之丞先生の指摘に、初めて田中さんの言葉が止まった。彼の顔を覗き見る。田中さんは、眉間に皺を寄せてこれ以上ない侮蔑の視線を品之丞先生に送っていた。
「君は、悪魔に魅入られているよ」田中さんは吐き捨てた。
「まあ、意気地なし」品之丞先生は穏やかに返した。
「――もういい。話はここで終わりだ」田中さんは右手を振って言った。「ツクヨミ財団は、君の野望実現には手を貸さない。以上だ」
この結論は、おそらく最初から変わっていなかったのだろう。だけど明言したことで、品之丞先生の視線は明らかに冷たくなった。
「では、交渉決裂ということで?」
「そう捉えてもらって構わない。悪いね、せっかく大演説まで披露してくれたのに」
「残念です。あなたなら、理解してくださると思っていたのに」
「別の正義と相容れるのは難しいものさ。もっとも――」
再び、田中さんの目に相手を蔑んだ色が混ざる。
「人の命を踏み台にし、君が愛してやまない無実の人々への誹謗中傷を進んでやっている時点で、協力どころか視界に入れる価値もないがね」
けれど、もう品之丞先生は田中さんに答えなかった。代わりに、曽根崎さんに目を向ける。
「確認ですが、あなたもツクヨミ財団側の方ですか?」
曽根崎さんの鋭い目が品之丞先生を捉える。この会談中殆ど黙っていた曽根崎さんだったが、大きく息を吐いたあと口を開いた。
「私はどちらの側につく気もありませんよ」
「ちょっと、どういうことだい」即座に田中さんが噛みついたが、曽根崎さんは涼しい顔である。
「どうもこうも、私とツクヨミ財団にはビジネス上の関係しかありません。ならば、傾けば距離を置くのは当然のことでしょう。沈む船にしがみつく義理はない」
「随分と冷たいじゃないか。あんなに親密な仲だったというのにね」
「ビジネスが絡んでくるとあらば、多少おべっかも使いますよ」
多少? 今まで曽根崎さんが田中さんにおべっかを使ったことは、皆無では?
「でしたら、曽根崎さんは中立ということですね」品之丞先生は、ホッと表情を緩ませた。「ぜひ、今後は私とも有益な関係を築いてください」
「ええ、あくまでビジネス上の関係ですが」
「もちろんです」
その言葉を最後に、品之丞先生は立ち上がった。僕も慌てて彼女の上着を取りに行く。ドアを開けて上着を渡す時、品之丞先生は僕の目を見て「ありがとうございます」と微笑んだ。
柔和な笑みにどう答えていいかわからず、僕は「いえ」と短く返し目を逸らす。だけど、品之丞先生の囁くような声が追いかけてきた。
「竹田さんは、私の理念に賛同されますか?」
咄嗟に、答えられなかった。顔を上げる。品之丞先生の表情は、僕が考え終わるまでずっと待ち続けてくれるかのように優しかった。
「僕は……」
――所詮理想論で、実現は不可能だと思う。もとより、あれだけ非道なことをしてきた種まき人に協力するなんて絶対に嫌だ。
でも、もし、完璧に納得できる形で全ての悪人を排除できるなら?
僕の頭に真っ先に浮かんだのは、優しい人ばかりが住む島で見た光景だった。
「……一部の人を下等と考えて、死体の山を築こうという理念には賛同できません」僕は言葉を選びながら答える。「でもそれは、僕が人を憎みきったことがなく、本当に失いたくない人を失ったことがないからだと思います。現状で満足してるから、そんな世界がなくても平気で……。だから、」
――もしそういう事態に直面したら、僕も品之丞先生の世界を望むかもしれません。
そう口にしかけて、すんでのところで飲み込んだ。その言葉をもって品之丞先生への回答とするのは、間違っている気がしたのだ。僕が一部でも賛同することは、今回品之丞先生が取った行動を肯定してしまうように思えた。
「そうですか」しかし品之丞先生は僕の意見に気を悪くした様子もなく、むしろ嬉しそうに笑った。「抵抗感のある問いだったでしょうのに、時間をかけて考えてくださったこと、感謝します。あなたはやはり、愛情深い方です」
言い終えると、品之丞先生は軽く会釈をして事務所を去った。彼女を見送ったあとも、僕はしばらくドアの前に立ちつくしていた。





