35 ただの夢であるはずもなく
恐ろしい夢を見て飛び起きた。僕――竹田景清は、乱れた息のまま辺りを見回した。だけど床のどこにも血がこびりついていなければ、弁爾さんや白衣の人々の死体もない。ここは、地下室ではなく、曽根崎さんの家だ。
(ただの……夢?)
いや、どうだろう。夢にしてはあまりにも生々しかったし、何より僕には〝解読者の記憶〟というわけのわからない脳内同居者がいる。そいつが空間と時間を超えて、本当にあった出来事を僕に見せたのかもしれない。
……だめだ、そんなことまで考えているなんて全然平常心じゃないな。まずはSNSでも眺めて落ち着こう。ここ数日、重元さんの挙動をSNSで確認するのが日課になっていたため、すっかり習慣化した僕である。曽根崎さんに知られたら鼻で笑われる自信がある。
スマートフォンを起動させ、SNSアプリをタップする。しかしそこに広がっていたのは、昨日までとは一転した世界だった。
批判やご意見表明に混ざり、罵詈雑言や誹謗中傷が飛び交うのはまあいつものことと言っていい。今日違っていたのは、それらが全てツクヨミ財団に向かっていたことだった。まるで昨日まであった〝こどもの希望を守り続ける会〟や政治家への矛先が、ツクヨミ財団に集約されたかのように。
だけど違和感がある。僕にとってのツクヨミ財団は曽根崎さんをバックアップしてくれる正義の集団だが、普段はむしろ社会の縁の下の力持ち的な存在で、医療や慈善事業を支援している組織だ。そのツクヨミ財団が、一夜にして〝悪の組織〟になるものだろうか。
品之丞先生が、重元さんの支援者の前で「真の黒幕はツクヨミ財団だ」と主張しただけで?
疑問ばかりが浮かぶが、唯一答えをくれそうな曽根崎さんは自宅にいない。ならば事務所だ。僕は支度を整えると、マンションを飛び出した。
事務所に入った僕を出迎えたのは、深みのあるバリトンボイスだった。
「まったく、冗談じゃないよ!」
言わずと知れたツクヨミ財団の代表者であり、目下騒動の渦中にいるはずの田中時國さんである。なぜか曽根崎さんの事務所のソファでふんぞり返っていた。
よかった、元気そうだ。
「やあ、ガニメデ君!」ドアが開いた音に気づき、田中さんは僕を振り返った。「ごきげんよう! 僕は見てのとおり最悪の気分さ!」
「おはようございます、僕は竹田景清です。SNS、見ましたよ。大変なことになっていますね」
「困ったものさ! おかげさまでお問い合わせ窓口はパンク状態、いくつ電話があったって足りないよ。早い段階でクレーム対応専用にこやかAIをぶちこんでおいてよかったってもんさ」
どんな怒号を浴びせても、春風のような穏やかさで返してくれそうなAIである。でも、どうしてここにツクヨミ財団のトップがいるのだろう。
その疑問の鍵を握るのは、怪異の掃除人である曽根崎さんだ。
「品之丞氏に嵌められたな」
いつもの数倍目つきの悪い曽根崎さんが言う。おそらく僕が来る前からしていた会話の続きだろう。彼は今、自分のデスクで気怠げに肩肘をついていた。
「最初から重元氏の支持者を掠め取るのが目的だったんだ。そのために重元氏に近づき、私や弁爾氏を利用して支持者を煽った。熱が高まったところで本人を葬り、支持者をまとめてかっさらったというわけだ。大まかな流れとしてはこんなところだろう」
「え、ま、待ってください」
思わず割り込む。……品之丞先生が、重元さんの支持者を得るために曽根崎さんや弁爾さんを利用した? それじゃあ……。
「重元さんを殺したのは、品之丞先生なんですか? いえ、直接的じゃなくても、指示を出したのが品之丞先生だと?」
「その可能性は高い」
「でも、この件は種まき人が関わっているんですよね? ということは、品之丞先生も種まき人の一員だったってことですか?」
「……種まき人の構成員かどうかはわからんが、協力していることは事実だろう」
答えるまでに少し間があったのは気になったが、品之丞先生が最初から僕らと敵対していたのは間違いなさそうだ。数日前、この事務所で知的で上品な笑みを口元にたたえていた彼女を思い出す。あの時から、僕らは品之丞先生の手のひらの上だったのか。
「……すいません。まだ混乱しています」田中さんと曽根崎さんのためにお茶を入れながら、僕は尋ねる。曽根崎さんと話していたのは田中さんだろうけど、僕も一刻も早く頭の中の気持ち悪さを解消したかった。「品之丞先生が油断ならない人だというのはわかりましたが、それでどうして、ツクヨミ財団があんなに攻撃されているんですか?」
「攻撃しているのはSNSにお住まいの方々だけだがね」今度は田中さんが答えた。「テレビや新聞にお住まいの方々は静かなものだよ。週刊誌は初動が遅れているかな。もっとも、きちんと調べたところで僕の財団は清廉潔白で、ホコリのひとつも出てこないことをここにいる僕が保証してやるとも」
「清廉潔白なら尚更ですよ。昨晩、品之丞先生が重元さんの支持者の前で『ツクヨミ財団が全ての黒幕だ』って言いました。それからたった数時間で、こんなに影響が出るとは思えません」
「だから品之丞氏に嵌められたと私は言ったんだ」ここでようやく曽根崎さんが顔を上げる。その顔には、引き攣った笑みが広がっていた。
「この状況になるよう、彼女は準備していたんだよ。――君は随分寝坊したから見逃したがな。重元氏の死の直後、彼が駐車場で非業の死を遂げた映像が何者かによってSNS上で拡散された。……無論、品之丞氏がツクヨミ財団を糾弾するシーンも含めてな」





