34 ある煽動者の最期
その後のことはあまりよく覚えていない。なんとか曽根崎さんの家にまで戻った時には、既に阿蘇さんはいなかった。曽根崎さんも、僕がシャワーを浴びて出てきた時には家から姿を消していた。きっと後処理に行ったのだろうとわかっていたし、僕も行くべきじゃないかと思ったけれど、だめだった。もう体が動かなかった。
僕は普段曽根崎さんがベッド代わりにしているソファへとよじ登ると、猫のように丸くなった。曽根崎さんの家は空調が効いているので、いつでもどこでも快適に眠れるのだ。僕はそのまま深い眠りに落ちていった。
――失敗した。重元が怪異の掃除人などというものに頼ったのが運の尽きだ。利用してやろうなんて考えるんじゃなかった。最初から一人でやるべきだった。
弁爾は、薄暗い地下室で目を覚ました。周囲には、自分が集めた種まき人の信者たちが転がり呻いている。心の中で舌打ちをした。こいつらがとっとと重元を始末しないから、自分はこんな目に遭ったんだ。
こいつらはもう使えないだろう。娯楽に痛みの伴うリスクがあると知ってしまえば、次からは怯んでしまうからだ。また新しい獲物を見つけなければならない。ああ、前回はあんなにうまくいったのに。承認欲求の強い女をインフルエンサーに仕立て上げ、あえて男どもに向かって攻撃的な発言を取らせるだけでよかった。劣等感と自己顕示欲が並外れて強く、かつ分泌されたドーパミンを発散したくてたまらないやつらが集まってきた。
そんな人間のなんと御しやすいことか。少し自分が〝成功者〟を操って煽らせれば、〝敗北者〟は互いを正当化しながら喜んで犯罪行為に手を染めた。嫌がらせや誹謗中傷、度重なる脅迫の結果相手を自殺にまで追い込んだ時など、罪悪感を抱くどころか「情けない」「痛いところを突かれたからこそ死を選んだ」「自分たちの勝利だ」と祝杯をあげた。
あの時飲んだ酒は、実にうまかった。
しかし、今はここから出なければ。そう思った弁爾が立ち上がり、出口に向かおうとした時である。
一人の女が、階上から自分を見下ろしていることに気づいた。
「……」
弁爾はその女を見たことがなかった。だが、ここにいるということは、外にいた重元の支持者の一人だろう。ならば重元の部下である自分を知らないはずがない。弁爾は、敵意のない媚びへつらった笑顔を作った。
「すいません、ここで悪漢に襲われてしまいまして……。助けを呼んでくれませんか」
だが女は、黙ったままで後ろ手で地下室の扉を閉めた。そつのない動きで階段を降りると、弁爾が使っていたビデオカメラを手に取る。そして、よく通る声で言った。
「〝見下ろす目〟の向こう側にいる方々は、娯楽を望んでおられます」
その言葉を理解できた者は誰もいなかった。――真っ青になった弁爾を除いては。
〝見下ろす目〟とは、種まき人なる異常集団が操る超能力である。それさえあれば、離れた場所や閉鎖された場所であろうとそこを覗き見、他者と共有できる。種まき人は人々の狂気と混乱を最も悦ぶ。見下ろす目は、集団の愉悦を満たすのに重要な力のひとつだった。
そして、それこそ弁爾が最も欲する力だったのである。種まき人の一員として行動する弁爾は、集団の中でより高い位置を目指していた。その目的のために、種まき人を悦ばせられる〝見下ろす目〟は非常に有用なツールだったのである。
〝見下ろす目〟を使えば、今の自分のように危険を冒さずとも、簡単に刺激的な映像を手に入れることができる。種まき人に貢献し、更なる力を得られる。
だが、その〝見下ろす目〟の向こう側にいる者達が娯楽を望んでいるということは――
「あらかじめ断っておきますが」女は続ける。「ここから出られるのは、一人だけです」
冷たい言葉は、弁爾の推測を裏付けるのに十分だった。銃声が響く。気絶しているだけだった白衣の一人が一度床を跳ねたあと、自らの体を起点にじわじわと真紅の液体を広げ始める。
硝煙は、拳銃を持った弁爾に纏わりついていた。
「あ」
「え? ……何? なんで」
「なんで弁爾さんが?」
戸惑う声は、突如狂乱へと変わった。逃げ惑う者、腰を抜かす者、出口へと突進する者。しかし最後の者は、女が立っているラインを越えようとした瞬間、その場に倒れた。
「先に申し上げたとおりです」女の手にも拳銃が握られていた。「ここから出られるのは、一人だけです」
それでも、人数が多いうちに全員で立ち向かえば、多少の犠牲は出ようと女一人押しのけて外に出ることはできただろう。だがここにいる者達にはできなかった。他者のために自分がその犠牲になるかもしれないなど、到底承服できなかったからだ。
ならば、最後の一人になるまで殺し合いを続けるしかない。今日自分は人を殺すのだと自覚し、ナイフなどを用意していた者は、少しだけ長く生き延びることができた。しかし、流されてここに来た者や、自らの手は汚さず特等席での傍観を決め込んでいた者は、呆気なく殺戮者の餌食になった。
電動ノコギリを振り上げた者がいた。だが刃が肉に刺さった瞬間、彼は電動ノコギリを取り落とし自分の足に直撃させた。その痛みにかがんだところを、背後から迫った男に首をかき切られて彼は死んだ。
今や地下室は悲鳴と血に満ちていた。しかし一部の目は爛々と輝き、あまつさえこの状況に悦びさえ感じているようだった。それは深夜、散らかり食べ残したラーメンの匂いが充満した部屋で背中を丸めて成功者の影を舐めるより、はるかに満たされる行為だったのだ。
だが、最後に女の前に立っていたのは、弁爾ただ一人だった。
「おれは……生き残ったぞ……」
おぼつかない足取りでそう口にした弁爾の背には、細いカッターが突き立っていた。
「これで……おれは……外に……み、みおろす……目も……」
抜けた歯の部分からひゅーひゅーと息が漏れる。そこから一筋の血がつたっていた。しかしそれらに気を留めることなく、女は言った。
「質問をいたします。あなたは種まき人でありながら、銀色の脳について外部に漏らしたのはなぜですか?」
「え……?」
「形式的な質問です。お答えください」
弁爾は少しの間沈黙していた。答えようにも、肺が痛くてたまらなかったのである。
「そのほうが」弁爾は答えた。「おもしろいと思ったからです」
「なるほど。よろしいでしょう」
どうやら弁爾の回答は女――ひいては種まき人にとって正しいものであったようだ。だが表情を緩ませた弁爾が、右足を階段に乗せた時にそれは起こった。
発砲音。ついで、弁爾の視界はぐるりと上向きに回転した。後頭部への衝撃と背中に深く突き刺さる刃物。女に撃たれた弁爾は、仰向けで転がっていた。
「言ったでしょう」
弁爾の視界に、もう女は映らない。しかし自分の姿は女の〝見下ろす目〟を通して種まき人に共有されているのだろうと弁爾は知っていた。
「ここから出られるのは、一人だけだと」
そうして、女は踵を返し階段を上り始めた。足音が遠ざかっていく。弁爾は目を閉じた。最期の時に、彼の脳裏に浮かぶ者は誰一人としていなかった。





