33 曽根崎の目的
「え」
何が起こったか理解するのに時間がほしかった。だけど僕の脳は、否応なしにひとつの記憶を引っ張り出してきたのである。
――順序よく、行儀よく並んだ大勢の人の笑顔。だけどなぜかどの顔もハンコを押したようにまったく同じで、それが見渡す限り続いていた。その中で、たった一人だけ違う人物がいる。
肉が焦げるような異臭が鼻をつく。その人は真っ黒だった。でも着ている服の形に見覚えがあった。ちりちりに焦げた髪の真下にある引き伸ばされた顔を知っていた。ああ、笑っていない。たすけてくれと叫んだ形のまま、口が固定されている。
その人は、重元川太郎だった。
記憶と現実が一致した。背中に鈍い衝撃が走る。僕の体は、狭い車の中で少しでも重元さんから離れようともがいていた。
「曽根崎さん! 曽根崎さん!」
がんがんと車の窓を叩く。ドアを開けて外に出ればいいなんて思いつきもしなかった。僕は、自分で作り上げた妄想の牢獄に囚われていた。
ふと、気づく。雨はもう降っていなかった。だというのに、窓にこびりついた水滴の向こう、道路を挟んで反対側の歩道に傘を差した人が立っていた。
〝僕の傘だ〟。そうわかると、妙に頭が冷えてその人を観察していたのである。その人の周りだけ、時が止まったように静かだった。彼が持つ傘は雨避けの機能を果たすものではなく、顔を隠すためのもので、それでも彼は決定的瞬間をこの目で見逃すまいと傘の端を持ち上げていた。
そこから覗いた顔は、一週間前、曽根崎さんのマンションの前で僕に絡んできた男の人のものと同じだった。
「ひっ……!」
僕の全身を寒気が襲った。なんであの人がここに? さっき、家の前で重元さんを応援していたはずじゃ? どうして僕の傘を持ってるんだ?
因果関係がわからない気持ち悪さで吐きそうだった。思えば今回はこんなことばかりだ。誰もが何を目的として行動しているかわからず、僕はずっと何者かの手のひらの上で踊らされる道化のようだった。
(……クソ)
全身の力が抜けるような虚無感を振り払う。拳を握る。僕がもう一度目を向けたのは重元さんだった。――誰が黙って踊ってやるものか。僕は唯一、記憶の中で重元さんの未来を見た人間だ。だったら、彼の中に僕だけが知れる情報が残っているかもしれない。
しかし、僕はすっかり忘れていたのだ。曽根崎さんから「絶対に車内にいるように」と言われていたことを。
ドアを開ける。雨上がりの湿った匂いが僕の肺を満たす。だけど、黒焦げの塊に向かおうとした時――
「急げ、忠助!」
曽根崎さんの声が耳をつんざいたと思ったら、僕は抱きとめられていたのである。僕が何かを言うより早く、僕は曽根崎さんの手で地面に押しつけられていた。
遠くで、男性の短い悲鳴が聞こえた。駆け出す足音もだ。阿蘇さんがあの男の人を追っているのだろう。そこでようやく僕は、曽根崎さんに言われた言葉を思い出したのだ。
事務所で、弁爾さんと最初の邂逅を果たしたあと――
『この依頼人の裏には必ず種まき人がいる』
『今回はどんな手を使っても情報を手に入れてやる。君もそのつもりで、私の行動に合わせて臨機応変に対応してくれ』
そしてあの家に向かう途中、重元さんをわざと逃がした件について曽根崎さんに尋ねた時――
『……私の目的は、最初から変わらないよ』
(ああ)
言いようのない感情に胸をわし掴まれた。そうだ、曽根崎さんは最初から〝種まき人の確保〟が目的だったのだ。気づこうと思えば気づけたのに、僕は……。
駐車場に残された水たまりが、じわじわと僕の肌を侵食してくる。こんな時に東の空が明るんできて、橙色が曽根崎さんの頬を横から照らした。彼の冷たい瞳に色が差すのを見上げながら、僕はやっと声を絞り出したのだ。
「……すいません。僕は、また間違えました」
「いや」曽根崎さんは首を横に振る。「私の説明不足だ」
――いつになったら、僕は曽根崎さんの隣に立つに足る人間になれるのだろう。結局、足りていないのは、僕の覚悟なのかもしれない。
虚しい感情を抱えながら、曽根崎さんの顔を見上げている。僕の脳に潜んでいるはずの〝解読者の記憶〟は、沈黙を保ったまま何の答えも与えてくれなかった。





