32 醜悪なもの
「ゲンマさん」
行きましょう、と僕は声をかけようとした。だけどそこでやっと思い出したのだ。彼が品之丞先生の家族であることを。
品之丞先生は変わらず外で熱弁を振るっている。だが僕らが安全に逃げられる時間は、そう長くは残されていないだろう。
「ゲンマさん、僕らと行きませんか」
それでも僕は、そう尋ねたのである。ゲンマさんが僕を助けに来てくれたことには違いないし、ここ一週間の日々は僕の中で彼への情を育むのに十分な時間だったのだ。
「……」
ゲンマさんはどこか痛むような表情で僕を見た。二度まばたきをしたあと、ゆっくりと僕の手を取る。そしてそこに自分の頬を擦り寄せたあと、そっと手を離し、首を横に振った。自分は行けない。ゲンマさんはそう言った。
「わかりました。……ここまで、ありがとうございました」
深追いはしなかった。しても無駄だろうとわかっていた。僕だって、彼と同じ立場ならそうしただろう。
頭を下げ、曽根崎さんに追いつく。意外にも、曽根崎さんは僕の行動を責めなかった。そんな時間がなかっただけかもしれないが。
裏口から出れば、塀の上にいる阿蘇さんがちょうど重元さんを引っ張り上げている最中だった。重元さんは頭の怪我が痛むのか、か細いうめき声を漏らしている。
僕の四肢を叩く雨は随分小降りになっている。夜明けまでにはあがるだろう。
こうして僕らは、ゲンマさんや弁爾さんらを残したまま、一旦現場を離れたのである。
車の中は、血と汗が混ざった嫌な匂いが充満していた。重元さんの臭いだ。後部座席で曽根崎さんと一緒に重元さんを挟んでいる僕は、この湿った臭いにじっと吐き気を堪えていた。
当の重元さんは、自分を抱きしめるようにして両腕を回し絶えず呟いている。痛い、いたい、このままでは死んでしまう、早く病院に行かなければ……。
「……ふ、ふうう」
ふいに重元さんの鼻息が荒くなる。それと同時に車が止まった。
「やっと電波が入った」スマートフォンを確認し、阿蘇さんはため息をつく。「すまん、一旦外に出て電話をしてくる。少し待っていてくれ」
「わかりました、待ってます」
ドアが開き、外の新鮮な空気が入ってくる。だけど僅かな時間であれば、車内に立ち込める悪臭をかき乱すだけに終わった。せめて窓だけでも開けられないだろうか。そう思って腕を伸ばそうとした時である。
「竹田君っ!!」
突然、重元さんが僕の左肩を掴んできた。振り向くと、眼前に重元さんのひきつった笑みがあった。
「このたびは本当にありがとうっ! ほんっとーにありがとう!! 君は間違いなくおれの命の恩人だ!!」
「ど、どうも……?」
「この功績を世に知らしめなければっ! そうだ、君、就職はしているのか!? よかったらうちの事務所で働きなさい! ちょーど一人空きができたところなんだっ!」
なんだか、様子が変だ。本能的な嫌悪感からつい手を振り払ってしまったが、それがいけなかった。
「あああああああああっ!!!!」
重元さんに耳元で叫ばれ、全身が硬直する。その隙に、彼は僕を押しのけてドアを開け、外に転がり出た。
「ああああああっ!! おおおおおおおおっ!! おれは、おえは、ここだ!! 生きている! 生きているぞぉっ!!」
重元さんは両腕を広げて走り出した。阿蘇さんが車を止めている場所は、駐車場だ。そこを重元さんはめちゃくちゃに走り回っている。
「曽根崎さん……!」
「君はここにいろ。絶対に動くな」
そう言うと、曽根崎さんは僕を置いて車を降りた。僕は曽根崎さんの言うとおり、車内から重元さんを見守っていた。
重元さんは走りながらジャケットを脱ぎ捨て、靴を放り投げた。
「おれは生き延びた! はははああああああざまあみろっ!! 弁爾は〝こどもの希望を守り続ける会〟側だった! だがおれは看破した!! 俺が正しかった!! 証明された!! 弁爾、今すぐ俺の功績を配信しろ!! 弁爾! 弁爾ィッ!!」
今はもういない部下の名前を呼んでいる。もしかすると、重元さんはとっくに正気を失っていたのかもしれない。
「楽しかったなぁ、弁爾!! たくさん良いことをしたなぁ!! あれだけ高尚なことを言うやつらが、ちょっと世間からの攻撃にあっただけで俺に泣きを入れてきてなぁ!! 家族がいる? 職場での立場がある? 知ったことか!! 批判に晒されるのが嫌なら公の場に出てくんなってなぁ!!」
「俺は止まらないぞ!! まだまだ気に入らない奴らだらけだ!! なああああああうるさくて生意気なガキを黙らせないとなぁ! 調子に乗る女には躾が必要だなぁ!! そいつらの味方をしてチヤホヤされる軟弱男を日本から追い出さなきゃなぁ!! まだおれはやれる!! 奴らをとことん追い詰めて、苦しめて、社会的に抹殺してやる!!」
げらげら、げらげらと笑っている。僕は、そんな重元川太郎という男のあまりの醜悪さに愕然としていた。彼の悪評は知っていた。所業に憤りを覚えることもあった。でも、ここまで人間が腐っているとは思ってもみなかった。
助けたのは、間違いだっただろうか。そう思いすらしたのである。
「あー……」
ぴたっと重元さんが止まる。まるで雨水を飲むかのように真上を向き、口を開ける。その時に発した重元さんの声は、決して大きなものではなかった。だけどなぜか僕の耳には明瞭に聞こえたのである。
「でもそれも、せいしんがそろう日までのことなんだよなぁ」
瞬間、バリバリバリという雷鳴が轟き、強烈な音と共に辺り一面真っ白になった。





