30 おしまい
咄嗟に曽根崎さんの指示通りに耳を塞いだものの、僕は彼が何をしようとしているかわかっていた。だからこそ、今更不安が押し寄せたのである。
最近の曽根崎さんの精神状態は比較的安定しているように思う。けれど、彼が今から使おうとしている呪文は、対象が多ければ多いほどかかる負担が大きい。今地下にいる人数に呪文を使った場合、曽根崎さんが正気を保てる保証はなかった。
でも、僕は何も言えなかったのである。ここにいる人達の蛮行を止めることができるのは、曽根崎さんしかいない。僕がどんなに代わりたいと思っても代われない。
歯痒くて、みじめな感情だった。
「曽根崎様、一体何をなさるおつもりですか!?」
やっと曽根崎さんに気づいた弁爾さんが慌てて歩み寄ってくる。が、当然曽根崎さんは見向きもしない。白衣の人達は手を止め、不審げな顔つきで曽根崎さんと弁爾さんを見ている。
僕が耳を塞いでからここまで、大体5秒足らずの出来事だった。
「――」
曽根崎さんの口が動き、僕には理解できない音の羅列が発せられた。
かと思うと、突然僕の目の前から人がいなくなったのである。いや、いなくなったんじゃない。壁に張りついていたのだ。彼らは皆、全力で走り、自らの身を壁に激突させていた。
それは弁爾さんも同様である。ぶつかった時に鼻の骨と前歯が折れたらしい。ずるずると赤い筋を引きながら壁から滑り落ちる血まみれの顔は、妙に平らになっていた。
唖然とする僕の肩が、トントンと小さく叩かれる。
「はい、おしまい」
両耳から手を離し曽根崎さんを見上げると、そんな声と共に何の表情もない顔と目が合った。いつもの曽根崎さんの顔だ。なのに、こんなに強張っていた体から一気に力が抜けるのは、どうしたことだろう。
「遅いですよ」でも口をついて出たのは悪態だった。これもどうしたことだろう。
「……いえ、ありがとうございます。助かりました。僕じゃどうすることもできなかったので」そこで急いで言葉を付け足すと、今度は僕の卑屈な部分が顔を出した。今はだめだな、あとで改めて伝えよう。それより、重元さんを助けなければ。
急いで重元さんの元へ行く。髪の毛を剃り上げられ、頭部からだらだらと血を流すその姿に一瞬怖気づきそうになったが、勇気を奮い起こして声をかけた。
「重元さん、大丈夫ですか!?」
「あが……あがが、がが」
「い、今拘束を外します! えっと……あ、だめだ。これ鍵がかけられてる。でも、絶対誰かが持ってるはず……!」
「……」
僕の背後から、にゅっと大きな手が伸びる。ゲンマさんだ。ゲンマさんは重元さんの首の拘束具を両手で鷲掴みにすると、無理矢理横に引きちぎってしまった。すごい怪力だ。おかげで重元さんは自由になった。
「お、お、おれは……たすかったのか。もうあいつらは、こないのか」
床に這いつくばって弱々しく僕の顔を見上げる重元さんに、僕は力強く頷く。
「はい、助けが来ました。今のうちに逃げましょう」
「でも、おまえは銀色の脳で……いや、ちがうのか? だが、おれは銀色の脳かどうかわかるから……お前は銀色の脳で……」
「あれだけ盛大に裏切られてるってのに、わからずやですね。それも含めて弁爾さんが仕組んでいたんですよ」
「そのとおり」ひょっこり顔を出したのは曽根崎さんだ。僕が何か言う前に、頭の裏側を引っ掻き回されるような甲高い音が鳴る。なんだこれ!?
「超音波的音発生装置」
曽根崎さんの手の中にあったのは無線機のような機械。つまみがあって、そこを曽根崎さんが捻ると音が大きくなった。
「ぐあああっ! やめてください、曽根崎さん!」
「これは弁爾氏の持ち物から発見されたものです。重元氏を騙し操るために使われていたのでしょうね」
「う、ううう……! これだ、この音だ! おれの家を攻撃していた電磁波は……!」
「更に音の高さと出力を調整すれば……」
「うおおおっ!! やめろっつってんだろ、曽根崎!!」
「この音は、銀色の脳の!」
「やはり。あなたの身辺を調べれば、似た機器がいくつか見つかると思われます」
苦しむ僕をそっちのけで二人は納得している。とりあえず、僕の一時的な聴覚異常と引き換えに、重元さんからの信用は得られたようだ。
曽根崎さんが先導し、重元さんを抱えたゲンマさんがそれに続く。僕はしんがりを担当だ。地下に倒れる人々は、一応意識はあるものの、追ってくるほどの元気はないらしい。
階段を上り、廊下に出る。ドアを閉め、ゲンマさんがその前に重たそうな家具を置けば、簡易的な牢の完成だ。
「これでひとまず安心でしょうか」曽根崎さんを見上げ、僕は言う。「あとは警察と救急車が来るのを待って、重元さんを引き渡せば……」
「ま、待て。おれは警察に突き出されるのか?」焦る重元さんに、僕は首を横に振る。
「いいえ、保護が目的です。今の状況はまだ安全と言い難いですが、重元さんは病院にも行かなきゃいけません。僕らといるより、公的機関を頼ったほうがいいかと」
「それも……そうか」
重元さんは深いため息をついた。あまり痛がっているように見えないのは、緊張状態でドーパミンが出ているせいだろうか。
「で、曽根崎さん。警察はもう呼んでます?」
「いいや、まだだ」
「じゃあ僕から連絡しますね。……あれ、電波が悪いな。ちょっと外に出て……」
しかし、僕が玄関に体を向けた時である。外から、一際大きな歓声が聞こえてきたのだ。





