23 歓声
僕を味方につけたことで、重元さんの気分は多少晴れたらしい。さっきとは打って変わって、足取りも軽く正面から道路に出ようとした。
だがそこにあった光景は、重元さんの想像とは大きくかけ離れていた。
「――あ、重元さん! 重元さんが出てきたぞ!!」
「もうここについてたんだ! 機材の準備をしていたんですか!? 今からライブ撮影をするんですよね!?」
「どうか〝こどもの希望を守り続ける会〟の闇を暴いてください! 不当な行いを許すな!」
「あいつらを潰せ! あんたが正義だ! 濁った世界を正す唯一の特効薬だ!」
「潰せ! 潰せ! 〝利権を守り続ける会〟を!」
「潰せ! 潰せ!! 潰せ!!!!」
そこに集まった人々は、深夜にも関わらず大声を張り上げ、裏側にした右の手のひらを突き出していた。あれは重元さんが考案した〝不屈のポーズ〟だ。相手の謀略には沿わないという意思表示である。
最初はまばらだった「潰せ」コールも次第に重なり、今や巨大な声となっていた。その口は全員同じ形をしている。重元さんがばら撒いた嘘で作り上げた憎悪の形だ。そしてその憎悪は今、この家屋から離れようとする重元さんを食い止め、中へ押し戻そうとしていた。
――怖かった。僕には、この光景がかろうじて人の形を取っているだけの〝熱狂〟そのものに見えた。
「……!」
恐れたのは重元さんも同じだったろう。だが、彼は僕とは違った人間だった。
一歩前に踏み込む。堂々と胸を張り、ゆっくりと人々を見回す。そうして、悠然と微笑み――
皆と同じく、右の手のひらを裏にして天に突き出したのだ。
瞬間、爆発的な歓声が起こった。「潰せ」コールと重元さんの名前を呼ぶ声がテンポを上げて重元さんを取り囲む。僕は思わず耳を塞いだ。そうでもしないとこの熱狂に呑まれてしまいそうだった。
人々の中には、あの日曽根崎さんのマンション前で見た男女の姿もあった。その目は大きく見開かれ、雨粒を照らす街灯の下でもわかるほど頬を上気させている。阿蘇さんもいた。まだ警察が到着しておらず混沌とするこの場で、唯一冷静に人々の波を食い止めていた。
じっとりと濡れた服が僕の肌に張り付く。僕はいつの間にか息を止めていた。
「……素晴らしい」
僕に纏わりつく沈黙を破ったのは弁爾さんだった。僕のとなりにいた彼は、恍惚とした顔でハンディタイプのビデオカメラを掲げていた。
「これだ。これなんだ。……彼を選んだ私は、間違っていなかった」
そんな彼を見て、僕の心臓は嫌な音を立てたのである。――まただ。またこの違和感。思わず胸をかきむしりたくなるような気持ち悪さだ。
僕は、弁爾さんに何を感じているんだ?
答えが出る前に重元さんが帰ってきた。彼は何も言わずしっかりとした足取りで民家の玄関へと向かおい、引き戸に手をかけた。鍵は開いていた。僕はぞっとしたけど、重元さんは躊躇うことなく中に入り、再び片手を裏側にして挙げた。
歓声と共に閉まろうとする戸に、慌てて僕と弁爾さんは滑り込む。……今の僕、周りの人たちからは重元さんの撮影メンバーと思われているんだろうな。スマートフォンのカメラを向けている人もいたし、パーカーのフードを被っていてよかった。
民家の中は暗くて埃っぽい匂いがし、家財と思しきものに布がかけられている。人が住んでいる様子はなさそうだけど……。
「うう」
ずる、と隣で影が崩れた。重元さんだ。顔面は蒼白で、呼吸は荒い。さっき人前で見せたのとは大違いなその姿に、僕はつい彼の肩を支えていた。
「重元さん、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫なものか……! こんな、こんな……!」
一瞬怒鳴られるかと思って身構えた。しかし重元さんの攻撃性は弁爾さんへと向かっていた。
「お前のせいだぞ!!」
外はまだ歓声が続いている。支持者に重元さんの声は届かなかっただろう。
「お前のせいだ! お前が支持者なら道を開けると言うから俺はそうしたんだ! その結果どうなった!? ああ!? なぜ俺は車に乗らずにまだここにいる! おい、なんとか言ってみろ!」
鈍い音がする。重元さんはやおら立ち上がり、弁爾さんの顔を殴っていた。
止めないといけない、と思った。けれど僕の体は僕の意に反し、冷たく凍ってしまっていた。
「申し訳ございません」殴られた弁爾さんは、静かな声で猫背のまま深々と頭を下げた。
「私の失態でございます。支持者の皆様が、あれほど重元先生に期待しているとは知らなかったのです……」
「俺のためなら政府にすら楯突くやつらだぞ! 過小評価にもほどがある!」
「面目次第もございません。私は支持者の皆様の熱意と重元先生の求心力を見誤っておりました。なので、その……ここはぜひ、このまま〝こどもの希望を守り続ける会〟に乗り込み、決定的な不正の証拠を公のもとに晒すべきかと思うのですが」
「そ、それは」
弁爾さんの提案に、途端に重元さんは歯切れが悪くなった。僕には重元さんが一気に二回りぐらいしぼんだように見えた。
「それを行うのは……今ではない。今ではないんだ、弁爾。何事にも好機というものがある。こどもの会に乗り込むのは、また次でいい。何なら、警察や第三者委員会など適切な機関に任せるべきだろう。そいつらのほうがノウハウもあるし……」
「その警察や第三者委員会が信じられないと先生がおっしゃっていたではありませんか。曰く、汚職政治家の息がかかっている可能性があるからと」
「だが、俺に何ができる? お前らだって俺の盾にはなれないだろ? またあの銀色の脳に出くわしたら……あ、この小僧がこどもの会の弱みなんだな!? 曽根崎は裏でこどもの会と繋がっている。だから曽根崎の部下である小僧がこちらにいれば向こうは手を出せない! そうなんだな!?」
「いいえ……残念ながらそうではありません」
ですが、と弁爾さんが顔を上げる。その表情が思いもよらぬものだったので、僕はつい数歩後ろに下がってしまった。
「重元先生、我らはもう行くしかないのです……。あなたなら大丈夫。さあ、参りましょう」
弁爾さんの手には再びハンディカメラがあった。彼は、心底幸福そうに笑っていた。





