21 民家前
「着いたぜ」
阿蘇さんの呼びかけにハッと顔を上げた。急いで傘を探す。だけど弁爾さんに譲ってしまったことを思い出し、自分の間抜けさを恥じつつ我が身を濡らす覚悟を決めた。
一方、阿蘇さんと曽根崎さんは元より傘を差すつもりなどなかったようだ。二人とも平然と雨の中に降り立っていた。
「……兄さん、あれ」
「ああ。せっかくの丑三つ時に情緒のないことだ」
阿蘇さんが視線で示した方向――重元さんがSNSで告知したと思しき民家の前には、既に大勢の人が集まっていた。
「おい、中にいるんだろう! 早く姿を見せろ、卑怯者が!」
「銀の脳をした人非人め! 私達はもう真実を知っているのよ!」
「何が〝こどもの希望を守り続ける会〟だ! 自分達の利権しか考えていないくせに!」
「死ね! 死ね! 死ね! これ以上日本を終わらせるな!」
「あんたらの真実は重元さんに拡散されている! 終わりだ!」
「出てこい! 償え! こどもの会全員で裸踊りをしながら謝れ!」
思わず耳を塞ぎたくなるような下卑た野次が飛んでいる。だけどこんなに騒がしいにも関わらず、周囲の民家に明かりはついていなかった。むしろ重元さんの支持者が荒げる声以外に、音らしい音はないんじゃないかとすら思う。
「近隣住民は様子を伺っているのだろう」曽根崎さんが言う。
「だが既に通報は済ませているはずだ。じきに警察が来る」
「それなら多少安心できますが……。でもそれにしたって、あそこにいる人たちは異様ですよ。まるで自分たちが正しければ何をしてもいいと思っているみたいです」
「よくわかってるじゃないか。正義を叫びながら振り下ろす拳はいつだって爽快だ。それに連帯感も加われば尚更な」
冷静な曽根崎さんに、僕は苛立ちと不安からくる反論を返そうとした。だけど、雨音に混ざって聞こえてきた声に、それら言葉をごくりと飲み込んでしまう。
「これ以上はいけません。不法侵入になります」
阿蘇さんだ。いつの間にか民家の前にいた彼は、一人の男性を食い止めていた。その男性はたいそう気を害したらしく、阿蘇さんに向かって唾を吐き捨てる。
「なんでだよ! 俺が直接行って〝こどもじゃなくて利権を守る会〟に物申してやるって言ってんだ!」
「やめてください。ここは空き家かもしれませんが、許可なく中に入れば警察が来るなりあなたは不法侵入の現行犯で逮捕されることになる」
「罪だのなんだの主張したいなら、先に〝利権を守る会〟に言うべきじゃないですかねー? それか何か? お前もあっち側の人間か!」
〝あっち側の人間〟という言葉に、大衆がどっと怒りの声を上げた。半ば面白がるような声もある。雪崩にも似た罵倒は阿蘇さん目掛けて一斉に降り注ぎ、目も当てられないほどだった。
「阿蘇さん……!」
なんてひどいことを言うんだ! 頭ではそう憤っていたけれど、実際の僕はオロオロと阿蘇さんと曽根崎さんを交互に見比べるだけだった。情けないことに、僕は昔から怒鳴り声が苦手なのだ。
それに実際、曽根崎さんが何とかしてくれるだろうと期待していたのである。だって曽根崎さんは阿蘇さんの実の兄、唯一の血縁なのだから。
しかし現実は無情だった。
「よし、忠助が愚物どもを食い止めている間に重元氏を探しに行くか」
「うわー! 人でなし!」
「戦略的だと言ってくれ。もとより、無名の一個人である私があの魯鈍たる集団に影響を及ぼせるわけないだろ。重本氏の確保が先だ」
言われてみればそうかもしれない。ここで僕と曽根崎さんが飛び込んで火に油を注ぐより、重元さんに来てもらうほうが事態が沈静化する可能性は高いだろう。……そうか? あの人、止めてくれるか?
いや、考えるのはあとだ。曽根崎さんから「私は民家周辺を探すから、君は裏から敷地内に入り探してくれ」との指示を受けた僕は、彼と二手に別れ行動を開始した。
民家の裏に回れば比較的静かになって、僕は少し安堵した。感情を剥き出しにするあの人達の近くにいると、胸がざわざわして心許ない気持ちになる。
塀に足をかけ、よいしょとよじ登る。窓は内側から新聞紙が貼られていて中の様子は覗けないけれど、人の気配は感じ取れなかった。本当に、ここに重元さんが来ているのだろうか。
だがその疑問は、家屋を壁伝いに曲がるなり瓦解した。
「ひっ……!」
「うわっ!?」
突然足元から聞こえた声に飛び退く。見下ろすと、誰かが頭を抱えて小さくうずくまっていた。
「……重元さん、ですか?」
僕の問いに重元さんは勢いよく顔を上げた。憔悴しきった目と視線がかち合う。瞬間、「しまった」と思った。僕は曽根崎さんの謎演技により死んだことになっているのだ。僕の死が偽装だとバレたら、曽根崎さんへの信頼感が失墜してしまうかもしれない。
だがすぐに考え直して背筋を正した。――僕の死は、あくまで弁爾さんの口からしか伝えられていない。つまり重元さんは僕の顔を知らないのだ。だったら何食わぬ顔をして対応すればいい。
そう思ったのだけど――。
「や、やっぱり生きていたのか……!」
重元さんは見開いた目を恐怖に震わせながら、掠れた声で言った。
「弁爾の言うとおりだ……やはり曽根崎は俺を騙した! そうだな!? ああ!?」
なぜ、それを? 僕は咄嗟に弁解しようと口を開ける。しかし声を発する前に、ここにたどり着いたもうひとつの影が後ろから僕の肩に手を置いた。





