17 公園にて
「すいません、ご心配をおかけしたようで」
弁爾さんがすまなさそうに僕に頭を下げる。……僕の正体には気づいていないようだ。咄嗟にかぶったフードが功を奏したのかもしれない。
なぜここに、しかもこの時間に弁爾さんがいるんだろう。近くに重元さんの潜伏先があるのだとしたら、僕と弁爾さんが一緒にいるのはよくないんじゃ……。
様々な考えが頭に浮かんでは、べっとりとこびりついていく。それらは不安の種に姿を変えて、僕の気持ちをそわそわとさせた。
「風邪をひきますよ」でもその不安は、無防備に雨に打たれる人を前にして一旦脇にどけられた。
「この傘を使ってください。僕は大丈夫なんで」
「あ……ありがとうございます」
弁爾さんは握っていたスマートフォンをしまい、傘の柄を手に取った。誰かと連絡を取っていたのだろうか。
ここでふと、弁爾さんの肩が思ったより濡れていないことに気づいた。日が落ちてから雨はずっと降っていたし、やっぱり近くに雨をしのげる場所があるのかもしれない。
「あなたは優しい方ですね。見ず知らずの人にここまで親切にされたのは、初めてです」
弁爾さんは、うつむいたままぽつぽつと話し始めた。
「冷たい雨の日には人の優しさが沁みます。最近は特に、私にとって厳しい状況になりましたから……」
「厳しい状況とは?」
「私が仕えている方がですね、なんというか、こう……苛烈なのです。正しいことをされているのですが、用いる手段が過激でして。すると当然、あの方を支持する私どもに求められるラインも高いものになります。凡人の身でそれをこなそうと思えば、自身を削り、強引な方法を使わざるをえませんでした。もちろん、その方を慕い、役に立ちたいと望んだのは私です。ですが……殴られれば傷つきますし、心ない言葉を吐かれれば胸が痛みます」
「……それが、あなたがこんな時間にここにいたご事情なんですね」
「はい。こうして一人になる時間を設けると、また頑張ろうという気力が湧いてきます」
公園のおぼろげな街灯に、弁爾さんの頬が照らされている。以前見た時よりあざは増えており、口を開くたびに歯が抜けた部分がちらちらと僕の視界を掠めた。
弁爾さんは、重元さんへの問い合わせ業務も行っている。重元さんは一部支持者から熱烈な応援を受けているけれど、いわゆるアンチが非常に多い。アンチの相手をし、かつ重元さんのパワハラモラハラを一身に受けているとなると、肉体的にも精神的にも負担は相当だろう。中間管理職の宿命だと割り切るには、あまりにも過酷な環境だ。
「やめたいとは思わないんですか?」余計なお世話かなと思いつつも僕は尋ねていた。
「生活がありますから単純な問題ではないでしょうが、身を削ってまで相手に尽くすというのはいささか頑張りすぎだと思います。その……僕からすると、上司の方はあなたの献身を利用しているみたいです。もし暴力があるならそれはもう犯罪になりますし、やめないにしても一旦距離を置いたほうが……」
「あなたの疑問はもっともです」
肺を絞るようにして出した僕の言葉を、弁爾さんは優しい声で遮った。
「ですが、私の胸に苦しいことといえば、満足に期待に応えられない自分への失望ばかりなのです。それでも私が仕えるあの方は、まだ私に仕事を任せてくれます。また、同志たちも見放さず、声をかけてくれるのです。だから私は組織に貢献したい。組織の中で、私はやっと存在価値のある生物として呼吸ができます」
「呼吸、ですか」
「ええ。生きている、ということです」
僕の言い方に合わせて返し、弁爾さんは微笑を浮かべた。
「私は弱い生き物です。何が正しいかもわかりません。だけど、あの方と出会って〝こうすべき〟〝こう生きるべき〟という指針を得られました。ただ漫然と死なないだけなら誰にでもできます。意味を得てこそ本当の生が始まるのです。そして、本当の生の中を進むことは、どんなに弱い人間であろうとも可能です」
いっぺんに話した弁爾さんは、ひとつ呼吸をおいて言う。
「決意さえ固めることができるのなら」
傘に雨が当たる音の中、僕は口をつぐんで弁爾さんの話を聞いていた。……僕には耐え難いほど厳しい環境に思えるけれど、弁爾さんにとってはそうじゃない。むしろ生きる理由ですらあるという。それなら、外野の僕にこれ以上口を挟む余地はないのだろう。
弁爾さんは腕時計に目を落とすと、「おお」と声を上げた。
「少しおしゃべりをしすぎてしまいましたね。傘を借りているというのに申し訳ありません」
「気にしないでください。雨も小降りになってきましたし」
「本当に優しい方ですね。もしよろしければお名前とご連絡先を聞いても構いませんか。後日ぜひお礼をしたいです」
「そんなそんな。大したことじゃ……」
その時だった。突き抜けるような痛みが僕のこめかみを襲ったのである。





