5 ゲンマさん
ゲンマさんの第一印象は、大きくて威圧感のあるおっかない人というものだった。
そんな彼と一日過ごした現在。そのイメージは盛大に覆った。
「ゲンマさん! コップを握った拍子に割れてしまったからって落ち込まないでください! 大丈夫ですから! もうそろそろ買い替えようかなって思ってたコップでしたから! 今度はガラス製じゃなくて取っ手のついたスチール製にしましょうね!」
「ゲンマさん! お皿洗いは僕が担当します! だからソファに座ってゆっくり……ああっ、お皿落とした! 割れた! 大丈夫です、これもぼちぼち割り時だったんです! 大丈夫!」
「ゲンマさん! 窓拭きも僕がやるんで――あっ足滑らせた! 窓枠掴んだ! 窓枠ひしゃげた!! 大丈夫です、老朽化が進んでいて耐震性が危ぶまれていた窓枠だったんで新調するいい機会です!」
「ゲンマさん!」
「ゲンマさーん!!」
夕方。ゲンマさんは、すっかりしょげて一回りくらい小さくなっていた。
「悪い人じゃなさそうですね」
ゲンマさんがトイレに行った間に、曽根崎さんに耳打ちする。曽根崎さんは不満を滲ませながらも小さく頷いた。
「なぜ品之丞氏が彼を置いていったかは未だ不明だがな。厄介払いか?」
「なんてこと言うんですか。そうじゃありませんよ。おっしゃってたでしょう、事件に関わる種まき人の顛末を知りたいって」
「そのための監視だというのか? あのウドの大木が?」
「ゲンマさんにあたり強いなぁ! 優しくて気遣いのできる人じゃないですか。ちょっと力加減が下手なだけで」
「ふん」
曽根崎さんは面白くなさそうにそっぽを向いてしまった。短い間でも協力関係にあるのだし、仲良くしてもらいたいものだけど。
そういえば、ゲンマさんはどこに泊まるんだろう。自宅に帰るのかホテルを予約しているのか。
考えていると、トイレのドアが開いた。ゴッと鈍い音がする。ゲンマさんがおでこをぶつけたのだ。
「ゲンマさん、今晩はどうやって過ごされるんですか? 一度品之丞先生のところに帰ります?」
「……」
僕を見下ろすゲンマさんの眉間がきゅっと狭まる。事務所に来てからこれまで、ゲンマさんは一度も喋っていなかった。それでも行動と表情を見ていればうっすら何を伝えたいかはわかるので、特に困りはしていないのだけれど。
「……曽根崎さん、ゲンマさんは泊まるアテがないそうです。どうします? 曽根崎さんのうちに連れ帰ってもいいですか?」
「いいわけないだろ。というかなんだその翻訳は。翻訳以前に彼は一言も喋っていなかったが」
「なんとなく言いたいことわかっちゃって……。ええと、じゃあ事務所に泊まってもらいます? でもそうなると事務所の関係者が一人いたほうがいいですよね。なら僕もここに泊まって……」
「おいおいおい、彼はいい大人だぞ。事務所を明け渡さなくたって一人でホテルなり手配できる」
「どうです? ゲンマさん」
「……」
「あんまり品之丞先生からお金をもらっていないとのことです。それにホテルに泊まった経験も少ないし、何より備品を壊しかねないから不安だそうで」
「うちも備品を壊されたら困るが? だからなんで言いたいことがわかるんだよ! あっこら景清君の服の裾を掴むな貴様!」
結局、僕と曽根崎さんとゲンマさんの三人で事務所に泊まり込むことになった。ゲンマさんは替えの服をまったく持っていなかったけれど、この縦にも横にも大きな体では誰の服でも太刀打ちできない。せめて曽根崎さんの下着を差し出そうとしたけれど、「私の下着の運命を君が握るな」と言われたので断念した。
「品之丞氏も彼を身一つで放り出すとは人が悪い」夕食時。味噌汁をすすりながら曽根崎さんが吐き捨てる。
「景清君、彼に使う費用はすべて領収書をもらうようにな」
「それはわかりましたけど、いい加減ゲンマさんを名前で呼んだらどうです? 彼呼びじゃなくて」
「どう呼ぼうと私の自由だろう」
「もー、何へそ曲げてるんですか。ゲンマさんが曽根崎さんに何かしました?」
「事務所の備品を壊されたが」
「反論しにくいな……」
どうも曽根崎さんは拗ねてしまっているらしい。三十一歳独身不眠症男性に拗ねられると二十一歳大学生の僕としては呆れるしかないが、理由がわからない以上時間が解決してくれるのを待つしかないだろう。一方ゲンマさんは炊飯器のご飯だけでなく冷凍ご飯まで完食した。これだけ大きいと量も必要なのだろう。僕はふと、阿蘇さんと藤田さんの晩御飯に招かれた時のことを思い出していた。あの二人もよく食べる。
さて、眠る場所は僕と曽根崎さんがソファで、ゲンマさんが床に敷いた布の上だ。ゲンマさんはちょっと寝にくいかもしれないけれど、ソファだと逆に窮屈だし本人もこれで問題ないという顔をしていたのでオッケーということにする。
「……ゲンマさんは、品之丞先生と一緒に暮らして長いんですか?」
曽根崎さんが一階でシャワーを浴びている最中。既に床に寝転がっているゲンマさんにそう尋ねてみた。
「……」
ゲンマさんは考える素振りをしたあと、僕の目を見て頷いた。品之丞先生は彼が物心ついた時からずっと一緒にいて、殆ど母親のような存在らしい。
「優しそうな人でしたね。あ、でも母親としては意外と厳しかったりしますか?」
「……」
この問いにゲンマさんは目を閉じて首を傾げた。比較対象を知らないからわからないとのことである。ということは、実の母親そのものも知らないのだろうか。
あまり深入りしてはいけないかもしれない。話題を変えることにした。
「そうだ。曽根崎さんって人、今ご機嫌ななめなんですけどね。あれで人相ほど悪い人でもないんですよ。文句は垂れますが、なんだかんだでいつも助けてくれます。ゲンマさんも困ったら頼って大丈夫ですからね」
「……」
ふと、ゲンマさんが身を起こして僕を見た。深い黄色の目に僕が映る。それはよく晴れたある秋の日の日差しのようで、不思議と心が凪いでいった。
曽根崎さんとのことは心配しなくていいようだ。ゲンマさんは、彼に悪感情を持っていない。普通の人より目線が近くて、もっと食事をしたほうがいい人だと思っている。
「よかった」
そう言うと、ゲンマさんは小さく微笑んだ。笑うと一気にこどもっぽくなって、まるで僕より幼いんじゃないかと錯覚してしまう。いや、案外そうかもしれない。僕はゲンマさんの年齢すら知らないのだ。
電気を消す。僕らが眠るまで曽根崎さんは一階にいるだろう。二階にいては不眠症の暇を潰せないからだ。
「おやすみなさい」
暗闇に向かって呟く。ゲンマさんが毛布にくるまる気配がした。





