番外編 藤田直和の入院
灰色の屋上に散らばった水たまりが青空を映す。代わり映えのしない景色にやっと訪れた変化だが、今日の天気なら夕方までには乾いてしまうのだろう。
藤田直和は、病院のベッドからぼんやりと窓の外を見ていた。
あの日、軽い気持ちで同行した島で体験した様々な出来事。それらは藤田の精神を大きく揺さぶり消耗させ、彼から生きる気力を奪ってしまった。
そして今は必要最低限の生命維持を確保するだけの生き物になって、こうしてベッドの上で日がな一日身を横たえている。
藤田の心を動かすものは、もはや何もない。そう、たとえ天地がひっくり返り、地面から雨が噴き出し空から礫が降ってこようとも――。
「失礼します。景清です。藤田さん、大丈夫ですか?」
あ!!!! 景清いらっしゃい!!!!
かわいい!!!! 今天地がひっくり返って温泉湧いて空から天使が降ってきた!!!!
「なかなかお見舞いの許可が下りなくて随分来るのが遅くなりました。すいません」
「(いや、いいよ。オレもろくに対応できる状態じゃなかったから)本当だよ!!!! どんだけオレが景清恋しさにもんどりを打ったと思ってんの!!???」
「思ったより元気そうでよかったです。あ、お菓子持ってきたんですよ。激辛のやつ」
「(そんな、気を遣わなくてよかったのに。オレはかわいい景清さえいれば他に何もいらな)お菓子も!!??? しかも激辛!!??? ありがとう永久マイエンジェル!!!! 今日も後光がミラーボール!!!!」
「だいぶパーリィな後光ですね」
未だ国宝に指定されていないことが信じられないほど愛らしい甥っ子が見舞いに来てくれたことで、にわかに生気が戻った藤田である。だが、波の花のごとく儚いその横顔に帯びた憂いは、やはりどうにも拭い去りようがなかった。
「……景清は聞いてるかな。医者の先生がオレに言ったこと」
藤田は、睫毛の長い目を今一度そっと窓に向けて言う。ガラスに映った景清をガン見しながら。
「オレ、もうダメみたいなんだって。ははっ……お医者さんが匙を投げるなんてよっぽどだよね」
「……はい、聞いています」
「え――」
「でもそれ、藤田さんが検温や見回りに来てくれる看護師さんを片っ端から口説いてたからでしょ。そりゃお医者さんもアイツはダメだって陰口叩きますよ。無理もありませんよ」
「ふふ、陰口じゃない……。面と向かって言われた」
「直談判ならなお悪いと思います」
「即刻態度を改めないと二度とこの病院の敷居は踏ませねぇみたいなことも言われちゃってさ……。オレの体、どうなっちゃうんだろう」
「自業自得でしょうが」
やれやれと肩を竦める甥に、藤田はくすっと微笑んだ。……いつもそうなのだ。少しばかり頼りない自分を、このお節介な青年はしっかりと諌めてくれる。
「あとさっきから自分の世界に浸ってるのなんなんです?」
彼と再会してからどれほどの月日が経っただろう。景清の存在は、モノクロだった藤田の生活に色彩を与え世界の果てを遠くにさせた。時々、ふと景清が赤ん坊だった頃を思い出すことがある。一挙一動の愛おしさは、あの時と何も変わらない……。
「そうだ、今日の午後退院ですよね。あと一時間したら阿蘇さんが手伝いに来てくれるそうなんで、それまでにお菓子食べて英気を養っておきましょう」
「マジかよ、阿蘇来んの?」
「はい。二時間だけ有給取って抜けてきてくれるみたいなんで、できそうならちょっと準備しときましょうね」
「うっそだろ、急すぎない? 見てよホラ、オレったら一晩放置した炭酸水のごとく気の抜けたパジャマなんだけど」
「大丈夫かっこいいかっこいい。でも確かに退院するならお着替えしたほうがいいですね。替えの服はどこに置いていますか?」
「ない」
「ない?」
「ない。阿蘇がオレの替えの服を用意してくれなかったからどこにもない」
「いやいや、なんで人のせいにしてるんですか。いくら急な入院だったとはいえ着てきた服があるでしょう」
「阿蘇が『ばっちぃ』って言いながら捨てた」
「阿蘇さん……」
「だからオレはパンツ一丁で退院をキメないといけない。大丈夫、社会の目のひとつやふたつ、オレのセクシーダイナマイツなキャットウォークでいくらでもごまかしてやる」
「どんな歩き方をして帰ったところでパンツ一丁は見逃されませんが。えー、どうしようかな。ここからだと藤田さんの家はちょっと遠いし……。あ、お金さえもらえたら近くの店で適当に買ってきますけど」
「ほんと? ならお願いしようかな」
「ありがとうございます。サイズはMサイズでいいですか?」
「うん、ミラクルサイズ。もしくはラブサイズ」
「あれミディアムとラージっていうんですよ。じゃあ行ってきますね」
「うん。オレの永遠なる愛、キューティー景清……」
「それもしかして行ってらっしゃいって言ってます? 二度と使わないでください」
軽やかに病室を出ていく景清を見送りながら、藤田はふうと息を吐く。なんということだ。足音までかわいい。踏まれた廊下が逐一喜びの声をあげているかのようだ。
そんな春風にも似た景清の訪問は、藤田の心を大いに慰めた。残されたお菓子の袋に手を伸ばす。力をこめて袋を開けると、むせるほどにスパイシーな香りが藤田の鼻腔を刺激した。
さきほどまであんなに煩わしかった日差しが、今はきらびやかに輝いて見える。今日は絶好の退院日和だろう。
「うーっす、藤田。手伝いに……あ? なんだお前」
「やあ阿蘇、来てくれてありがとね。どうしたの? オレの体に薔薇の花びらでもついてる?」
「薔薇の花びらはねぇけど妙ちきりんなTシャツなら纏わりついてるよ」
「何が妙ちきりんだ! デザイナーと購入者の景清に謝れ!」
「いや、『RELEASE A LARGE AMOUNT OF SALMON』ってなんだよ。大量のサケをどこに放出するつもりだ」
「生態系を乱さないよう配慮したい」
「つか景清君が買ってくれたの? あの子、買い物頼んだら一番安いの買ってくるから気をつけたほうがいいぞ」
「その情報はもっと早い段階で共有しておきたかったな。ちょっと大きめのスーパーの二階にある服屋で買ったって言ってたよ」
「リーズナブルな理由がデザイン見ただけで理解できる店か……。しかもちょっと肩のところ日焼けしてんじゃねぇか。どんだけ長い間店に置かれてたんだよ」
「ちなみにズボンはこちら」
「うっすいうっすい6分丈ジャージ」
「完全装備といっていい。今のオレは無敵だ」
「一緒に歩く時は三尺下がって俺の影を踏まないようにな」
「慎ましやかに距離を取れってこと? でもこれも景清コーディネートだと思うとどんなブランドより価値があるよね」
「お前、表現はキモいけど景清君を大事に思う気持ちだけは本物だよな」
「キモくない! 愛がほとばしってるだけ!」
そして藤田は元気に退院した。
番外編 藤田直和の入院 完





