37 それはされど
十字架のペンダントを握る僕の手は、曽根崎さんに掴まれている。高い位置にある鋭い目が僕を見下ろした。
「捨てるのは、よくない。君らしくない」
曽根崎さんがぼそっと言葉を落とす。
「そのペンダントは自然由来の素材で作られているように見えるが、実際に海で分解されるかどうかは素人目で軽々しく判断すべきではないだろう。安易にゴミを捨てるのは避けるべきだ」
「あ、大事なものだから捨てるなとかじゃないんですね。つかゴミって断言したな今」
「釣り糸が絡まって悲しそうにしている子アザラシの姿を見せてやる。これで君も考えを改めるはずだ」
「わかりました、わかりましたよ! 捨てるなら家に帰って燃えるゴミとして捨てます!」
「よろしい」
やっと解放される。掴まれていた部分はひりひりとしていて、まだ曽根崎さんの手が残っているようだった。
「……いやになります、ほんと」
「気持ちはわかるよ」
「嘘つけ」
「なぜわかった」
「マジで嘘なのかよ……。だって曽根崎さんなら、自分がコントロールできない他人なんて期待するだけ無駄だって言って終わりでしょ」
「決めつけるんじゃない。そういった物言いは人を傷つけるぞ」
「違うんですか?」
「当たってるが」
「なんなんだよあんた」
調子が狂うオッサンだ。だけどこんなやりとりですら、僕は切り捨てられないでいた。
「……君が何を期待して行動し、結果として何が返ってきたのかは未だ不明瞭だが」曽根崎さんが面倒くさそうに空を見上げる。「人は人、君は君だよ。君がどれほど誠実で正当性のある説得を試みようが、世界中の人間を動かすことはできない」
「だからとんだ思い上がりだったと?」
「そこまでは言っていない。だが期待をしたのが自分の説得能力なら思い上がりかもな。相手が考えを改めて前向きに生きるという結果に期待していたのなら、今の君が抱いている感情は失望だろう。であれば、私から言えることはひとつだ」
その言葉に曽根崎さんを見る。僕の視線に気づいた曽根崎さんもこちらに顔を向けた。
僕らの間を潮風が抜けて、髪の毛を揺らす。そして曽根崎さんは口を開いた。
「次、頑張ればいい」
「同じ事件はまたとありませんが?」
「だが似たような案件はある。その時こそ今回得た貴重な経験を活かすんだ」
「あんた僕の悩みを就活面接の失敗程度に捉えてません?」
「ははは」
「笑うな」
こいつに弱音を吐露した自分がばかみたいだ。いや、実際ばかなんだろうけど。
「……それでいいんだよ。君には、次があるんだから」
「……」
でも不思議なことに、手にした十字架は随分と軽くなっていた。
(……そうだな。忘れないでいよう)
十字架を握る。今度は優しく、手のひらを傷めないように。
(経験として処理することも、前向きな原動力のひとつにすることも僕にはできない。抱えていこう。サユリさんの最期の表情も、座間さんの言葉も。いっときでも、親子として幸せな時間を過ごせたことも……全部、ずっと覚えていよう)
記憶を十字架にしみこませるように、握り続ける。後悔もあるけれどそれだけじゃない。
スミレさん。
なぜかはわからないけれど、あの人にだけは対抗曲に遮られた僕の言葉が届いていた気がしたのだ。本物じゃないとわかっていても、僕の願いを反映させただけだったとしても。血が通ったような彼女の祈りは、もう僕の心臓の鼓動に組み込まれていた。
“どうか、しあわせに”
――僕も、あなたの幸福を叶えたかった。
「ああ、忘れるところだった。シスター二河の情報もツクヨミ財団から入ってきていたよ」
「え? 本当ですか?」
予想外の進展に驚く。てっきり彼女は存在しない人間だと思っていた。
「四十年前に行方不明になっていた女性だそうだ。山間部にある村に向かう途中で土砂崩れに巻き込まれ、未だ遺体は見つかっていない」
「シスターも行方不明の方だったんですね」
「ああ。おそらくそこで彼女の身に何かが起こったのだろうな。蘇ると同時に人知を超えた力を手にし変質した彼女は、自らの目的に向けて動き始めた。なお、シスターが村に向かっていた目的は、大雨で孤立した人々に支援物資を届けるためだ。生前から大した慈善家だったんだろう」
最後の一言は皮肉めいて聞こえないでもなかった。だけど僕はというと、彼の説明でシスターの行動がすとんと腑に落ちたのである。
シスターは自らの行いを説明する際に「人々を幸せにするため」と語っていた。たぶん、そこに嘘はなかったのだと思う。なぜなら〝行方不明になっていた大切な人の帰還〟は間違いなく人を幸せにしたからだ。
そう考えれば、戻す対象を行方不明者に限定していたことや、外部から邪魔が入らないような孤島を作り上げるなど、シスターは徹底して方舟の人々の幸福を守ろうとしていたのだとわかる。たとえそれが虚構だとしても、信じる者は救われる――。結果として彼女は皆を神の元へ連れて行くという結論に達したけれど、その根底にあったのは人を救いたいという慈悲だったのではないか。
……なるほど。シスター二河は、世界中の人を救えないとよく知っていた。だから救える人々だけを選んで確実に救おうとしたのだ。
「曽根崎さん」
「ん」
水平線の向こうに陸地が見える。もうすぐ僕らの日常が戻ってくる。
途方もない後悔と救いがたい幸福を、海に残して。
「宇津木さん、いつか本物の娘さんが見つかるといいですね」
「そうだな」
返ってきたのは心底平坦な声だったけれど、さりとてその言葉の主が僕の隣から動くこともなく。
それこそが、僕にとって何よりも失いがたいものだと今はよくわかっていた。
第8章 それはされど幸福な 完





