36 計画
ぎゅっと手すりを握る。胸にぶら下がった十字架が揺れる。島からの脱出のために必要なのは宇津木さんだという曽根崎さんの見立ては正しかった。
なぜなら、宇津木さんはシスターの操る船なしでこの島を訪れた唯一の人だったのだから。
「宇津木氏さえ脱出に協力してくれたらすぐに片が付いたんだがな」曽根崎さんが言う。「残念ながらすこぶる非協力的だった。彼は娘を蘇らせたシスターに陶酔しており、方舟の一員として仲間の反感を買うのは避けたがっていた」
「初登場の時点でシスターを脅してましたしね。これ以上やらかしたくない気持ちはわかります」
「ゆえに我々は一芝居打つことで、その虚構なる信仰にヒビを入れてやることにしたのだ」
それが藤田さんが誘拐されてからの一連の流れである。つまり曽根崎さんは、あの時点で宇津木さんを懐柔するべく行動を始めていたのだ。
「いや、それにしたって面の皮が厚すぎません? 仲間がさらわれたのを利用するって」
「仲間……?」
「藤田さんは仲間でしょ! 血も涙もないのか、あんたは!」
「強いて呼ぶなら運命共同体だろう」
そんな運命共同体の僕らは、宇津木さんにシスターへの疑念を抱いてもらうべく立ち回った。藤田さんの件ではシスターに力を行使させ、方舟の人々に疑念の種を蒔いた。そして祭りの盛り上がりが最高潮に達するタイミング――シスターがラッパを吹く直前で曽根崎さんが皆の前に現れ、不安を煽るパフォーマンスを行ったのだ。更に僕がラッパを持って逃げることで、彼らの膨れ上がったフラストレーションを爆発させた。
だけど――
「それでも、宇津木さんが選んだのは娘の知沙菜さんでした」
無意識のうちに右手が傷へと伸びていた。
「ラッパを取り戻すために僕まで刺して……」
「けしからん話だよ。必ず有罪判決をもぎとってやるからな」
「いいですよ、裁判沙汰にしなくても! それに結局、宇津木さんのほうは〝知沙菜さん〟に選ばれませんでしたし」
宇津木さんは、藤田さんに組み伏せられて首にナイフを突きつけられた。でもラッパを手にした知沙菜さんは、そんな父には目もくれずシスターのもとへと踵を返したのである。
「そのあと藤田さんが宇津木さんを説得して……僕らに協力してくれることになったそうですね」
「ああ」
『これでわかったでしょう、宇津木さん。あの知沙菜さんは偽物です。本物の知沙菜さんはまだ遺体すら見つかっていないんです』
『知沙菜さんは、きっとあなたを待っています。どうか帰ってあげてください』
「……はぁ」
「どうした、辛気臭いため息をついて」
藤田さんの説得は、宇津木さんの心を動かした。それによって彼の命含めた大勢を救ったのである。それに比べて僕はどうだった?
うつむけば、十字架がまた目に入った。
「……なんでもありません。それより、宇津木さんはどうやって島に入ってきたんですか? 船を使ったわけじゃなかったんですよね?」
「うむ。彼は特殊な抜け道を通ってきたとのことだ」
「特殊な抜け道?」
「シスター二河には、方舟の連中すら知らない近道があったそうだ。一見何の変哲もないビルとビルの隙間だが、まっすぐ突っ込めばあら不思議。地図にも乗っていない小さな島にたどり着く」
「そんな魔法使い世界のギミックじゃないんだから」
「まったくもってそのとおり。だから半信半疑でそこを通ってしまった宇津木氏の精神は、少々常軌を逸してしまった」
「あ、もしかして最初にナイフを振り回していたのってそういう?」
「なんなら偽物の娘に異様に固執していた最たる原因だろう。もともと精神的に消耗していた人だ。あの抜け道を通ったことがトドメになった可能性は高い」
「でも藤田さんもそこを通って助けを呼びに行ってくれたんですよね。大丈夫だったんですか?」
「彼は通り抜けた瞬間気絶した」
「藤田さん……」
「しかし抜け道について書いたメモとレーダーを持っていたおかげで、すぐにツクヨミ財団に発見された。そこからは田中さんが強い電波を発する発信機を持って抜け道を通り、島の位置を突き止めたというわけだ」
「田中さんは問題なかったんです?」
「図太くて生命力が強い人間はこういう時に重宝されるよな」
「平気だったんだ……」
年の功というやつだろうか。いずれにせよ、みんな僕と違ってちゃんと役割を果たしている。
ふと、死を直前にしたサユリさんの目が僕の脳裏によぎった。続いて、スミレさんの悲しげな笑顔も。
「……僕は、誰も助けられませんでした」
「ん?」
「座間さんやスミレさんを。僕がもっと説得が上手だったら、せめてサユリさんは助けられたかもしれないのに」
――〝なんでもっと早く言ってくれなかったの〟
淀んだ泥を思わせるあの声が頭から消えない。座間さんが僕を振り払った手の強さが忘れられない。こらえていた弱音が、とうとう心に張られた薄い膜を破って噴き出した。
「曽根崎さんは言いましたよね。僕の行動は、計画じゃなくて期待だったって」
「そうだな」
「そのとおりです。僕は、あの人達が偽物から解放されて、前向きに生きてくれることを望んでいました」
頭の中に溜まっていた泥は言葉になって落ち、止まりそうもない。スミレさんが向けてくれた明るい笑顔が蘇る。手のひらに食い込むほど十字架を握る。汚物にも等しい自己嫌悪が止まらないのは、曽根崎さんにでもいいから許されたいからだろうか。
「でも、独りよがりな行動でした。サユリさんには、もう引き返せないタイミングで本当のことを伝えてしまいました。僕が言わなければ、サユリさんはジョウジさんを本物と信じたままでいられたかもしれない。座間さんも、助けに行ったのが僕じゃなかったら今も生きていたかもしれないんです。僕がスミレさんも助けようと思わなければ……」
「……」
「僕は、つくづく間違えました。こんなことなら最初から何もするべきじゃなかった」
十字架のペンダントを握って首から外す。大きく体を反らし、深い色をたたえた波間に放り込んでしまおうとする。
「やめろ」
それを、静かな声と大きな手が止めたのだ。





