33 肉体と魂
騒乱が始まってから、土埃とゴミ捨て場が混ざった悪臭がずっと消えない。それでも目を閉じて委ねてしまえば、闇の中を揺蕩っているようだった。
何人がラッパの音色に飲み込まれたんだろうか。ヴィオラ弾きのおじいさんはこれからもあの場所で不可思議なメロディーを奏で続けるのだろうか。サユリさんは向こうに行っても僕を恨み続けたままだろうか。
座間さんは、今、幸せなのかな。
――どれぐらいそうしていただろうか。ふいに肩を叩かれる。目を開けると、阿蘇さんのしかめ面が飛び込んできた。
「――。――……」
阿蘇さんの口が動く。そうだ、僕は耳栓をつけたままなのだ。
だが動かそうとした瞬間、腕に鈍い痛みが走った。ずっと強くしがみついていたせいで筋肉ががちがちに強張っていたのだ。でも、なんで……。
あ。
「曽根崎さん!」
呼びかけた彼は僕の真隣でぐったりと脱力していた。両腕を無理矢理動かし大きな身体をゆする。その甲斐あって、まもなく曽根崎さんは目を覚ました。
「――」
何も聞こえない。
「無事で何よりだ」
やっと耳栓を外した僕に、一息ついた曽根崎さんがネクタイを直しながら淡々とした口調で言った。……無事と言っていいのだろうか。結局、僕は誰も助けることができなかったのに。
言葉に詰まっている間に、曽根崎さんは阿蘇さんの腕を掴んで引き寄せる。
「すまん、鼓膜が破れていて僅かにしか聞こえない。一応読話はできるが不便極まりないし、君の力を借りていいか」
「え!?」
「ああ、はいはい。つか耳栓は?」
「彼に」
「わかった。こればっかりはしょうがねぇ」
阿蘇さんは大きくため息をつくとその場に屈み、曽根崎さんの耳に何か話しかける。肉体の損傷を癒やす呪文だろう。阿蘇さんの体は呪文の反動で微かによろめいたが、ぐっと拳を握りしめて耐え抜いた。
「うん、具合が良くなった」
機嫌がいい声の隣で阿蘇さんがぐったりしている。何か手伝いたいけど特に思いつかなかった僕は、せめてもと阿蘇さんの背中を撫でていた。
曽根崎さんの身に何が起こったかは僕でもわかる。本当なら僕に渡された耳栓は曽根崎さんが使うはずだったのだ。それが僕の行動のせいで、彼は自分で自分の両鼓膜を破らざるをえなかった。曽根崎さんを危険に晒したのは僕だ。
謝りたかったけど、今その時間はない。曽根崎さんと阿蘇さんもそれをわかっていて、すぐに立ち上がると周辺を見回した。
「さて、後片付けをせねばな」
あれほど賑やかだったプレハブ小屋が立ち並ぶ集落は、今や不気味なほどの静寂に包まれていた。その光景に思わず喉から声が漏れる。――ある程度の惨状は予想していた。だけどまさか、誰もいなくなっているなんて。
「俺は演奏が聴こえ始める前に人を連れてここを離れた」阿蘇さんが言う。「だから何が起こったかは知らねぇ。でも死体のひとつもないってことはみんな〝神様〟につれていかれたのか?」
「……僕が見たのは二つのパターンです。ひとつは体が崩れていく人、もうひとつは緑色の粒子を耳から体に取り込む人」
「緑の粒子を? なんだそりゃ。そんなもんが発生していたのか」
「はい。あと、そういう人は口から黒い粒子も吐いていました」
「……兄さん」
「私も見たよ。そしてその緑色の粒子は、シスターの眼窩部分から発生していた」
曽根崎さんが言うにはこうだ。シスターがラッパを吹き始めると同時に、彼女の目からおびただしい量の緑色の涙があふれ出した。それは瞬く間に気化すると、意思をもって空気中を漂い始めたという。
阿蘇さんはイライラと頭をかいた。
「で、その緑の粒子は残っていた人たちの体に入って、黒い粒子に色を変え出ていったと。嫌な話だな。黒いのが人間の魂だったとかそういうやつ?」
「大まかに理解するだけならその認識でいいのかもしれない」
「で、その黒い粒子は地面に垂れ流されて終わり?」
「いや、それもまた蛇が這うように空気中を移動し、最終的にはシスターの腹に吸い込まれていった」
「シスターの腹に?」
「そこが神とやらに繋がる〝門〟だったんだろうな。最後は彼女自身も自らの腹に頭を突っ込み、取り込まれるようにして消滅したよ」
光景を想像するだけで気持ちが悪くなる。でも、それだと矛盾が生じるのでは?
「おかしくないですか? だってシスターの体にできた門を通ったのは黒い粒子だけですよね? だったらここには抜け殻になった人たちの体が残されているはずですけど」
「お、そりゃそうだ。兄さん、体はどこ行ったんだよ。見てたんだろ? つか見てたってのもワケわかんねぇんだけど」
僕と阿蘇さんの問いに曽根崎さんは顎に手をあてて黙っていた。唇の端は引き攣ったようにつりあがっており、額には汗が浮かんでいる。
やがて漏れた低い声は、微かに震えていた。
「……まだ、そこにあるのかもしれない」
「は?」
「いや、やめよう。認識できないものを存在として定義すべきじゃない。見えないものは存在しない。そういうことだ」
「待て待て待て。めちゃくちゃ意味深じゃねぇか。モヤッとさせてねぇでちゃんと言えって」
「言ったところで理解してもらえるかどうか」
「わかりやすく説明するのがお前の仕事だろ」
「君たちの理解力の領分でもある」
そうは言ったものの、説明する気になってくれたようだ。曽根崎さんはある一点を見据えたまま、口を開いた。
「さきほど忠助は言ったな。緑の粒子が黒い粒子に変化したのは、人体に入り込むことで魂が付着していたからだと」
「そこまで細かく言った覚えはねぇけど、まあそういう認識だったな」
「そもそも魂とは何なのだろう。どこから、何を契機に発生しているのか。人の自我と同様の意味を持つものだろうか。ならば脳死状態の人間からは既に魂は失われているのだろうか。……もし、魂というものが、我々が想定する以上に肉体や認識と密接に関わっているとしたら? 我々は他者の肉体のみを見ているのではなく、魂をも目にしているのだとしたら?」
「あ?」
阿蘇さんが片眉を上げる。なおも曽根崎さんは淡々と続けた。
「私が思いついた仮定はこうだ。彼らの肉体は消えていない。ただ、魂が肉体から切り離されたことで、我々には認識できなくなっただけなのだと」
曽根崎さんが見つめているのは、座間さんが消えた場所だった。





