32 どうか、しあわせに
僕が浅はかだったのは、ラッパが奏でられたあとの対策を何も考えていなかったことだ。だけどラッパの音色が奏でられる直前、聞き馴染んだ低い声が僕の耳に届いた。
「留まりたいものは耳をふさいで大声で歌え! そうでないものは死者の皮と共に神の御下とやらに向かうがいい!」
彼の声とサユリさんの最後の言葉を聞いたのはほぼ同時だった。僕は咄嗟に両手で耳を覆い、激しい頭痛をこらえながら調子っぱずれの歌を叫んだ。
目の前のサユリさんは呆然として僕を見ていた。唇が開く。乾燥しているせいでヒビが入った唇が。
そこめがけて緑色と黒が混ざった粒子が飛び込んできた。いや、出てきているのだ。耳に飛び込んだ緑の粒子が黒の粒子を伴って口から出てきている。サユリさんはネイルの剥がれた爪で首や顔を掻きむしりながら、悶え苦しんでいた。
隣にいるジョウジさんの偽物は、ラッパの音が流れ始めるなり崩れ、ただのゴミの塊になっていた。この中にあったと信じられていた中身は、今まさに黒い塵になりゆくサユリさんのそばに寄り添ってくれるのだろうか。
そう思いながらサユリさんの様子を確認する。瞬間、息が止まった。彼女の目はもうジョウジさんの偽物に向けられていなかった。
ひたと、僕を見つめていた。
「……!」
僕は思わず走り出した。怖い。いやだ。サユリさんはもう助からない。ごめんなさい。もっと早く僕が説得できていれば。違う、今は他に助けられる人のところへ。座間さん、座間さんはどこだろう。ごめんなさい。僕のせいだ。僕のせいで。
ぐちゃぐちゃな感情をかき消すように叫び歌う。集落はまさに地獄絵図だった。かつて愛しい人の形をしていたゴミを半狂乱でかき集める人。黒の粒子を体内から出し切りこと切れた人。小さく丸くなって耳を塞いでいる人。
阿鼻叫喚の中を駆け抜ける。そして僕は、彼を見つけた。
「スミレ、耐えてくれ、スミレ……! 頼む、もうどこへも行かないでくれ!」
額に脂汗を浮かべた座間さんが地面にうずくまり、全身でスミレさんの頭を抱きしめていた。そのおかげかスミレさんは他の偽物よりは崩壊が進んでいない。だが、座間さんの唇の端からは黒い粒子があぶくのように漏れている。
気づけば僕は自分の耳から手を離し、座間さんの耳を塞いでいた。座間さんが驚いたようにこちらを見る。自分は大丈夫だと伝えるために頷いて微笑んでみせようとしたけれど、脳を掻き回されるような違和感に思わず呻く。僕の耳には、座間さんに入りそこねた緑色の粒子が入り込んできていた。
「いけない、景清君! 手を離すんだ! 私のことはいいから……!」
だけど彼の言葉は激しい咳で中断されてしまう。それをいいことに僕は彼の耳から手を離さなかった。頭の中に音楽が流れ込んでくる。頭痛はどんどんひどくなる。まばたきしたそのごく僅かな合間にかつて見た恐ろしい光景が広がった。ラッパの音色にヴィオラの音が重なる。
「できる……かもしれません……!」
悪意に満ちた混沌を睨みながら声を出す。矛盾と自己嫌悪に押し潰されそうになりながら。
「この音色が終わるまで耐えきれば……スミレさんは、きっと、ずっと、一緒に……!」
ハッとスミレさんが顔を上げた。ついさっき目が覚めたばかりかのように、僕と座間さんを交互に見る。それから僕がつけた十字架を見て泣きそうな顔で微笑むと、首を横に振った。
座間さんの手に自分の手を添える。そしてそっと彼の手を自分の耳から外したあと、僕の耳に押し当てた。
ラッパの音が聞こえなくなる。ぼろっとスミレさんの両手の指が崩れる。断面から何かの小骨がこぼれて彼女は苦しそうに顔を歪めたけれど、無理矢理口元に笑みを作った。
「どうか、しあわせに」
そう口が動いた。
次の瞬間、座間さんは自分の頭から僕の手を離していた。だけどもうスミレさんの耳を塞ぐこともしない。ただ、彼女を抱きしめていた。
緑の粒子が二人に襲いかかる。僕からもうできることは何もなかった。僕の眼前で、二人は終わらない闇に向かっていた。
「どうして」
僕を置いていくの、と。自分の耳を塞ぐのも忘れて、情けない言葉を吐きそうになった。また助けられなかった。また僕は間違えた。
緑の粒子が僕を見る。向かってこようとする。頭の中で響くヴィオラの音色が大きくなる。体の力が抜けていくのを感じた。自分の無力さに僕の中の幼い部分が泣き叫んでいる。
――ああ、この先にあるのが温かな闇だったらどんなにいいだろう。
「景清君!!」
だけど陰鬱で退廃的な思考は突如として断ち切られた。大きな手が僕の耳を覆い、勢いのまま地面に押し倒される。視界を埋めたのは曽根崎さんの青ざめた顔。
何かが耳の中に入ってきた。これは……耳栓?
曽根崎さんは僕の頭を引き寄せると、自分の側頭部にぴたりとくっつけた。
「歌え! 早く!」
耳を塞がれているはずなのに、なぜかはっきりと曽根崎さんの声が聞こえた。
「……」
そんな曽根崎さんの声と体温に、酷く安心してしまったのだ。まるで迷子のこどもが長い旅の末に、ようやく親に出会えたかのような。
腕を伸ばす。迷子がそうするように相手の体にしがみつく。大きく息を吸い、音とともに吐き出す。今や僕の頭の中を流れるラッパの音色は荒っぽいヴィオラの音色にかき消されていた。
曽根崎さんの肩に顔を埋める。何もできなかったことを、ただの役立たずでしかなかったことを懺悔する。でも彼は何も責めないで、僕を抱きしめ返してくれていた。





